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「境界のエクリチュール」 in Book of days

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2019.02.18

真冬に雨は降らない、真夏にも




「生きる」ために生きていても仕方がない。生まれてしまったがために生きざるを得ないなら詰まらない。「人は何のために生きるのか」という問いは、自己完結することはできず、他者に救いを求めるに至るのである。

五年手帳を書きながら、ふとこれは何のために、誰のために書いているのだろうと考える。誰にも見せるわけではない。だからきっと、未来の自分のために書いているということになる。たしかに一周回った今では、去年の同じ頃のことを読み返して、参考になったりはする。ただそのために書いているのだろうか。

要するに、人間は実はとても漠然と生きているものなのではないか。それは僕だけかな。

知る限りにおいて、こんなに政治が力を持ち、社会の仕組みを決め、人々の暮らしに介入している時代はないような気がする。昨日ふと思ったのだけれど、インターネットが一般化してから、世の中の変化が緩やかになったような気がする。人々に自由を与えるはずの技術革新は、案外、保守的な社会を作り出しているのではないか。あらゆることが、あっという間にすべての人の知るところとなるということは、新しいものがすぐに古くなるということである。結果、大きな変化をもたらす前に、それは萎んでしまうということなのではないか。大爆発を起こすエネルギーを蓄積する猶予がないということかもしれない。そんな自然発生的なムーヴメントが拡大しないがために政治が力を持つということなのでは。

君主のような強い存在、リーダーシップへの渇望。政治家にリーダーシップを求めてはいけない。政治はシステムである。そのシステムを動かせるのは、個の意思である。

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2019.02.17

空を飛ぶのは鳥だけでいい。




きっと本来、日曜日というのは安息日であって、それは宗教的にというよりも、人間の持つ周期の中で、七日に一度くらいは、何もせずに過ごすということが必要ということではないか。現代の私たちは、一般的に平日は仕事をし、週末には余暇を過ごすわけであるけれど、その余暇にも平日と同じように何かをするわけである。本当は、その仕事以外の活動もまた、六日のうちにするべきではないか。そして、日曜日は完全に休養する。

いつ誰が決めたのか、1日の労働時間は、基本的には8時間ということになっている。実際には、昼食時間などもあるから、会社によって拘束時間は、9時間ということも多いと思うけれど、それも含めて8時間がいいのではないか。1日という周期の1/3を公的活動に当てる。後の1/3は睡眠、1/3は個人的活動というぐらいが、人間的であるとは言えないだろうか。技術革新が進んで人間の活動に余裕ができるのならば、もっとそんなふうに暮らしが変化すればいいのになと思う。そんな悠長なことでは、生きていけないということになるのかもしれないが、それは求めるものがどんどんと高くなるために起こることだろう。

一体私たちは誰のために働いているのだろう。もしかしたら、今も封建社会の頃のように誰かのために働いているのかもしれない。搾取とは、決して一方的な強制で行われるものではない。それはあたかも、ギヴアンドテイクの形によってシステム化され、維持されるものである。

スキーに行こうと思ったけど、テレビの録画時間の残量を増やすためにたまったのを見ないといけないのでやめた。スキーシーズンもそろそろ終わりの始まりという時期になってきた。なんだか今日のスキー場は、いいお天気のよう、そういう時に限って家にいるのである。

「パンを求めて、パン屋を破壊する。自由を求めて、自由を破壊する。」

「敵と共に生きる。反対者と共に統治する。」

José Ortega y Gasset

文部省著「民主主義」
ここに書いてあることは、まったく腑に落ちる。当たり前である。私たちはみんな、その考えの元で教育されたわけであるから。それにしても、その内容は何も間違っていない。

「民主主義の根本精神は個人主義に立脚する。」民主主義を貶めようとする者は、個人主義を利己主義と罵る。

同じ民主主義といっても、社会主義における「民」とは国民の総体、資本主義におけるそれは個ということなのかもしれない。

夢は、どんなものでも苦痛を伴わない。いろんな夢を見ても、それはすぐに忘れてしまう。

善と悪、善人と悪人、私たちはいつも、そういう分類をすることで社会に境界を設け、社会の安定と自らの安寧をを守ろうとする。しかし、実際には、虐げられ搾取され続けた人とそれを支配した人という対立なのではないか。あらゆる罪は、その対立の下に現実となる。民主主義とは、何よりその解決策であったはずである。

灯台へ行けばよかったなあと思いながら、なぜかアウトレットモールに行った。雑多な空虚、十年ぶりくらいで、新しいローファーを買った。

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2019.02.12

エマージェイソン




自分で言うのも何だけれど、何の自慢にもならないけれど、僕は酔うと人が変わる方かもしれない。なぜ酔うと人が変わるのか、たぶん、脳の一部が麻痺することで、社会的自己をコントロールする機能が失われるためだろう。酔っても全く変わらない人もいる。僕の周りにはそういう人の方が多いかもしれない。そういう人は、その機能が失われたとしても、同じということで、要するに社会的自己と本来の自己が一致しているということではないか。僕はそれが乖離しているわけである。一人で飲んでいても、人は変わらない。当たり前である。社会的でないのだから。全く飲まないという人の中には、飲めるけど、飲まないことにしているという人もいるのではないか。僕も時々そうしようかとも考える。「どうしようもないやつ」そこに「愛すべき」でもつけばいいけど、ただどうしようもないのではやがて他人は離れていく。酒とはそういうものではないか。今まで何度か、あるいは何度も、自己嫌悪になるようなこともあった。素面の時と寄ったときではどちらが本当の自分なのか。それはたぶん酔った時だろう。ただここで言う本当とはどういうことか。社会的自己とはどういうものか。もしかしたら、引き寄せるべきは、素面の自分を酔っている自分にではないか。と言っても、いつも酔っ払っているわけにもいかない。それでは、身体的に廃人である。社会的自己の意識を緩めるというのはどうか。もしかしたら、この論理は、アルコール中毒者の発想かな。

雪はあらゆるものを覆い隠して、光だけの世界を作る。光の中にいる錯覚こそ、雪景色への憧れそのものである。願わくば、この身まで、覆い隠してほしい。その光の一部になるために。吹雪の中でホワイトアウトすると、すべてのものの形が失われる。すぐ目の前に何があるのかさえわからない。足元の斜面がどんなものなのかさえわからず、ただ、スキーから伝わる感触だけを頼りに降りてゆく。

近頃、自分の妙な開き直りに困ってしまうことがある。あまりに素直に思ったことを口にする。別に酔っているわけではないのだけれど。これももしかしたら、脳の老化に端を発することなのかな。

「翼をくれたのはあなたよ」とあるグラミー受賞者。世界と個の関係は、日本人にはないものかも。

スキー場で比較的近くに欧米の人と接する機会があるようになったためか、テレビで欧米の人を見て、今までと違った感覚を覚える。その知性と感性を身近にどきどきするのだ。

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2019.02.10

渋温泉にて











さすが二月の三連休、奥志賀ゴンドラ長蛇の列。と思ったら、強風のせいなのか、搬器を間引き運転しているせいのよう。待っているのがめんどくさいから、バスで焼額に移動したら普通に空いていた。昨日はアイスバーン、今日は新雪のモコモコ、スキーの重要点は、ポジションかな。あとそれを作る筋力。





久しぶりに渋温泉山崎屋。山の上に泊まると便利だけれど、麓の温泉の方が、ずっと快適だ。ふと思った。宿の人に、「ここから野沢と焼額山ならどちらが近いですか?」と聞こうとしたけど、そんなことGoogleで調べればより正確にわかってしまう。同じように、窓の向こうから聞こえる堰を越える水の音。「あの川はなんていう名前ですか?志賀高原から流れてきているのですか?」なんていうことだって、調べればすぐわかることである。そう考えると、会話の糸口は狭まってしまう。と言っても、「あの川はなんていう名前ですか?」と聞いてみた。で、何と教えてもらったか忘れた。ただ志賀高原の大沼池から流れ出て、やがては千曲川に合流し、信濃川と名前を変えて新潟へと流れゆくそうである。GWにかぐらへ行く時にずっと横を流れているあの川である。時折、長電バスのチェーンの響きが聞こえる。

何でみんなスキーをしないんだろう。旅程や宿泊まで含めて、こんな楽しい余暇はないと思うけどなあ。

明日はスキーどうしようかな。のんびり寄り道しながら木曽を通って帰るのもいいかな。早く帰ったら、スバルに行けるかな。

昨晩、目を覚ました時に、「へぇ、こんな夢みるのか」と思った気がするけど、どんな夢だったか思い出せない。結構現実的な夢だった気がするのだけれど。

もう、いつ死んでもいいと思っているわけであるけれど、いざ余命宣告などされたら、そこからジタバタするかもしれない。少しでも長生きしたいと言うわけではなく、最後に体裁を整えたいと思うわけである。まあ、進歩のない人生だ。

考えてみたら、今までの人生のほとんどを好きなことして過ごしているな。きっとそれは何かを引き換えにしているのだろう。

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2019.02.09

発哺にて




エクストレイルくんとスキーに来るのも、あと何度かかな。

二月の連休だけど、志賀高原は空いている。白馬とか、野沢はどうなんだろう。楽天トラベルを見る限り、どこもホテルは満室のようだけれど、ピークの時代より、キャパシティが減っているということなのかな。今年は去年より確かに空いているように思うなあ。

報復とは、誰にでもとてもわかりやすい考え方である。しかしそれは、どこからいつ始まって、1どこでいつ終わるものなのだろう。人間はそのことに気がついたから、刑罰においても、国家間の紛争においても、それを止めることにしたのではないか。私たちは、いつも自らに内在する罪を、あるいは、いまだ芽生えることのない罪の種子を意識しなくてはいけない。

人間が自由でないのは、結局のところ、食べるということに支配されているからだろうか。集団社会を形成したのちは、その食べるということが、支配の手段として巧みに利用されたために、社会が自由を奪うという構図になった。ハンガーストライキとは、命がけの抗議ということよりも、あらゆる支配に対する抗議、自由の表現ということになるのかな。

志賀スイスインは、志賀高原で喫煙可の貴重なホテルである。たぶん建ったのは、パンフレットの雰囲気からすると七十年代か八十年代で、だからなのか、部屋のしつらえが、ベッドも洗面も便器も、何だか少しこじんまりとしていて、自分が10センチほど大きくなった気になる。きっとこういうものは、部屋の大きさから落とし込んだ寸法なのだろう。日本人の暮らしは、当時よりも大きくなった。はずである。

フロントでチェックアウトの時、ホテルの人が、「30cmほど積もりましたので、4WDでも、20km/hぐらいのスピードで登らないと滑りますから」と。志賀高原のローカルのホテルの人は、雪でお客が困るとちょっと嬉しそうなところがある。外へ出ると確かに思ったより積もっていて、雪かきしないと車を出せない様子だった。ホームセンターで買っておいた雪掻きが役に立った。エクストレイルくんと一緒に、最後に発哺のバス停に登る急坂を無事登れてよかった。

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2019.02.07

Yesterday once more




人間が社会を形成して生きていくものという前提において、最もやりがいがあって楽しい仕事は、政治家かもしれない。それより楽しいのは、政治学者かな。我々は誰もが政治家であり、政治学者であるという言い方もできる。ファミレスでランチしているママ友は、立派な政治家であるし、居酒屋で愚痴っているお父さんたちは鋭い政治学者である。要するに、私たちは誰も、否応無く、社会から逸脱しない限り、政治的生き物なのだ。

若い人で政治家を目指す人は、みんな賢くて爽やかで誠実に見える。きっと大きな野望ではなく、希望を持って政治家を志しているのだろう。社会をより良いものに変えたい、間違っていることを正したい。そのために一番直接的で、近道となるのは、やっぱり政治家である。ただ問題は、政治とは、人間の醜いところを目の当たりにするものだから、彼らのほとんどは、妥協せざるを得なくなる。政治とは、妥協するものなのかという疑問が生まれる。

この世の中で生きていれば、みんなどこか変なのである。風雪に耐えながらしっかりと根を張りたっている樹木は、幹をくねらせ、枝を曲げて四季をやり過ごしている。そう考えれば、歪になった身体も、心も、恥じることなど何もない。今、生きているということそれ自体が、何より大切なことである。

未来志向という言葉は、「未来」が持つ概念に依存した耳あたりの良い言葉であって、裏を返せば、過去を言葉通りの過ぎ去ったものにしてしまうということではないか。日韓関係においては、様々な不利益を受けた韓国側が使うのはいいけれど、日本が使うべき言葉ではないだろう。政治家が、語気を強めて、「未来志向で」などと韓国に求めるのは、本末転倒である。

ミスドで、チョコファッションとコーヒーを頼んで会計をする。1001円を出すと、店員さんは表情を一つ変えずに、なぜか602円のお釣りをくれた。???席について、レシートを見ると合計は399円。店内には、カレン・カーペンターがやさしい声で歌う「イエスタデイワンスモア」が流れていた。木曜日の夜、これから中二のクラス会。

連休の志賀高原は、無駄に寒そうだ。

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2019.02.04

Gap

世界と社会にはどれくらいの隙間があるだろう。僕はそのどの辺りにいるのだろう。

昭和天皇の存在は、常に「戦争責任」という問題と共にあった。今上天皇も、昭和天皇が生前ずっと直面したその問題を目の当たりにした経験から、国民との「共存」の道を歩まれた。皇太子は、ご両親の考えと主権者である国民の意思に従うという生き方を選んでいらっしゃるような気がする。その流れは、すべて敗戦という裏付けのもとにあるのではないか。天皇制が、戦後から切り離されたとき、日本は、今まで経験のない社会構造へと移行するのではないか。緩やかな変化は、国民の意識を麻痺させ、その主権を実質的に奪い去る。我が国が、今後も「象徴」としての天皇を国体の中心に据え続けるとすれば、戦争責任とは切り離された天皇のあり方を想像しなくてはいけない。そこをなおざりにするなら、意思を持った天皇と野望を抱いた為政者は容易に結びつき、国のかたちはまったく違ったものになるのではないか。もし、秋篠宮やその皇子が、「この国の正義とは何か」を考え出したらどうなるだろう。それは、至極当たり前のことである。彼らがその意思を抑制したとしても、その次の世代はどうだろう。その頃にはもう、国民にも皇室にも、戦争など過去のものとなっている。同時にかつては誰の身体にも刻まれていた罪もまた、継承されることなく消え去っている。残されているのは、実しやかに語られるかつて偽造された国つくりの神話だけである。世界はどのように形態を変えているのか、科学技術が人々の思考にどのような影響を及ぼしているのか、それはわからない。しかし、我々は、いつの時代も島の民であった。我々にとって、境界は常に可視のものであり、それが分けるのは、内と外である。やがて、百年を越える溶解の時を経て過ちと悲しみは繰り返される。

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2019.02.03

Not think

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スキーに行かないとすることがない。ことがわかった。だからスキーに行くのだろう。

自己とは、私が、他者としての自身を認識するときに使う言葉ということになるのだろうか。自己は、心理的存在なのか、社会的存在なのか。

実験は仮説をもとにして行われる。よってそれはほとんどの場合、考えた通りにはならない。しかし、仮説を立てること、それを試みることを諦めてはいけない。

民主主義の絶対原則は、個の独立である。全体意思の幻想やや全体への依存は民主主義を阻害し、民主主義という名の全体主義を作り出す。

私たちは常に進化にさらされている。進化とは、生存競争そのものである。

私たちは常に鏡を探している。自らの姿を映し出す鏡を。

気の世界は間違いによって構成されている。間違い型の間違いを相殺し、見せかけの真実が生まれる。

哲学者にとって日本は興味深い国であるのは、生物学者にとってガラパゴスが興味深いことと同じだろうか。

戦後の学校教育は、結局のところ戦前を忠実に継承している。教育は、一義的に従うことを教える。そして、この世界のすべては、自然科学によって理解可能なものであると諭す。先生は、「わからない」と言うことを恐れ、生徒はわかっている世界がすべてであると教え込まれる。学校には、わからないことは存在しない。

なぜ第三次世界大戦は起こらないのか。その理由は、核兵器による抑止でも、全滅への恐れでもない。私たちの欲望によってである。あるいは、民主主義によってである。

ほとんどの国は、しない戦争のための周到な準備を整え、使わない武器を蓄え続ける。その労力がまさに戦争の虚無性を維持させている。

二十一世紀初頭からの人類の停滞は、二十世紀がもたらした万能感の裏返しである。




孤独なおじさんは結構心地いい。今は週末限定だけれど。考えてみれば、子供の頃から一人でいることが一番心地よかった。でも、それは家族という裏付けがあったからかな。本当の孤独も死ぬまでには味わってみたい。メニューにコークハイがあるとつい頼んでしまう。高校時代の小さな出来事を思い出して。

隣の席で、嵐の解散について熱く議論する同世代の女性たち。叶わぬ恋だけが永遠だ。

もしかしたら、もう日本人は買うものがなくなっているのかも知れない。

五十をすぎて死んだら、それは十分天寿を全うしたと言えるだろう。母方の遺伝を濃く反映するなら、そろそろ背が丸まってきて小さくなっていくかも知れない。何もできなかったなあと思うことが近頃あるけれど、まあそれも仕方がない。運命なのか役割なのか、あらゆる重なり合う要因が、一人ひとりの人生を形造る。内在する意思などまったくちっぽけなもので、それはたくさんの要因を整理することに費やされるばかりである。人生に意味などなく、それは他者から見たそれぞれの異形の説明に過ぎない。

スキーが趣味なんておこがましくってとても言えない。スキー場に行くのが趣味、あるいはスキー場にいるのが趣味、スキーの宿に泊まるのが趣味と言うことにしよう。

冬のピークっていつなんだろうとこの冬が始まる頃に考えていた。どうやらピークは過ぎたみたいで、寒暖を繰り返しながらもこれからは春に近づいていくようだ。たぶん、冬のピークは、1月の下旬、25日あたりではないのだろうか。

この世界のすべてのものは、どうやら循環しているようだ。この世界に現れるものは、その規模は異なっても循環の中にある。そのことは、地球の自転や公転の影響によるのだろうか。循環していると思うとちょっと安心する。


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2019.01.31

週末は雨かと思ってたら、もしかして降らないかも。そしてら行かないといけないなあ。冬の間は、楽天トラベルと天気予報ばかり見ている。

「どうしようかなあ」と考えているうちに事態は進んでいく。これがいつものパターンかな。判断に瞬発力がない。結果、いい場合もあるけど、とんでもないことになることもある。でもまあ、それは僕が内在するスピードなのだろう。

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2019.01.30

Melanie










「革命」という言葉をこの平和な時代にも、企業や政治家が好んで使う。革命という言葉が安易に用いられるとすれば、それはもっぱら拡大解釈によってである。革命は本来、抑圧とともに語られるべきものである。言い換えるなら、社会のどんでん返しである。どうにもならない目の前の世界をあらゆる方法によって変えようとする意思である。

運命という言葉を、役割と置き換えてみる。そうして少し納得する。いつか役割が変わるときが来るかもしれないし、それから解放されるかもしれない。

幸せとは、「何かしたい」などと考えない状態である。

宗教心が薄いと言われる日本人にもやっぱり宗教は必要で、今の時代にもそれは、「天皇」なのかもしれない。だから、国民は皇室に「神」の立場を押し付け続ける。わかっていながら、皇室の人権を無視して、自分たちの存在肯定にそれを用いている。

鳥は翼をたたんで落ちる。きれいな黄色と緑の小さな鳥、調べたらヒワという種類のようだ。鳥の名前も、花の名前も、ほとんど知らない。知らなくてもいいから知らないわけであるけれど、知れば少し幸せな気持ちになれるのかもしれない。かすみ草の小さな花のそれぞれも、よく見ると萎れているのとまだきれいに咲いているのとがある。かすみ草も桜も、きっと全体の意思で花を咲かせている。それぞれ、全体がすなわち、個である。桜並木は、その全体であるけれど、人間の手によって作られたものだ。全体と個、私たち一人ひとりは、大きな意思で繋がっているものなのだろうか。近頃は、そうも思ったりするけど、やっぱり個である。

僕はフェミニストである、と自分では思っている。そうなったきっかけは、学生時代に読んだ「風と共に去りぬ」と就職して最初の職場で出会った才気あふれる女性の先輩たちだ。

Tomorrow is another day.
生死と昼夜は、同様のものに思える。毎日死んで毎日生き返っている。だから苦しい日々もなんとかやり過ごせるのではないか。 mが多くてrが少なかった。なんか変だなと思って調べたらそうだった。中学英語のスペルも確かではなくなってきた。父の記憶も同じで、使わないものは、消え去って当たり前だと思う。

インターネットが実現したものは、権威からの解放かも知れない。と、apple musicを使っていると思う。等価な世界からの選択、そういうことが今起きているのではないか。

人間は本来、生き延びるために働くことや移動すること、すなわち身体を動かすことに心地よさや喜びを感じるようにできているのではないか。生きがいとかやりがいとか、そういうものは、身体を動かす必要がなくなった現代人が考え出したもので、そんなものは生きることに必要ないものと言えないか。

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2019.01.27

特急しなの車中にて










金曜日の夜行バスで出発すると、実質二日間でもとても長く感じるのは不思議だ。金曜日の夜の取引先の新年会は、もうずっと前のことのように思える。ニュースになるくらいの寒波の真っ只中、志賀高原も二日間で1メートル以上のさらさらの雪が積もった。まったく、十二月までの暖冬を一気に取り返しているような天候だけれど、どうも早々に今年はスキーをしないと決めた人が多いのか、あまりに寒くて行く気にならないのか、今シーズンのゲレンデはずっと空いているような気がする。今日の朝は、多くのリフトが運転を見合わせているような状態だったので、予定を変更して、早々に長野へとバスと長電で降った。長野盆地は積雪はあるものの、青空が広がり、車窓からは、冬枯れのリンゴの木を梯子に登って手入れする人の姿を所々で目にすることができる。同じ盆地でも、奈良と違うところは、周囲にそびえる山並みが百名山に数えられるようなスター級であるということとそこから悠然と流れる河川、それに雪景色だろうか。バスで行くとバスや電車の乗り継ぎを考えなくてはいけない。気象の状況も考慮して繋ぐことができるか、効率的に時間を使えるかをプリントした時刻表を見ながら考える。面倒でもあり楽しくもあるのだけれど、何よりいつでもお酒を飲めるのがいい。そして、同じように移動している人の様子を眺めているのも楽しいことだ。何度も書いているけれど、本当に外国の人が増えた。今ではもう、長電の人も、スキー場の人も、対応は慣れたものだ。国際化とは、語学の学習と同じで、必要に迫られればそれなりに進むものなのではないか。ここまでスキーリゾートが国際化しているのだから、夏期よりも冬季のオリンピックをやればいいんじゃないのかな。ヨーロッパやカナダのスキーリゾートに負けないぐらいのポテンシャルがあるのではないのかな。アルペンにスターが現れてほしいな。

たくさん目にする欧米の人を見ていると、遺伝子レベルの差は埋めようがないものだなあと思えてくる。別にかっこいい人、きれいな人を選抜して日本に派遣しているわけではないだろうに、みんながみんな、見とれてしまうような容姿であり、かつ知的に思える。なんだろうこの差は。進化とは、環境に適応できる個体だけが生き残ることによって進むものだそうだけれど、ヨーロッパとアジアでは、こんなにも環境が違ったということなのだろうか。劇的に変化を求めるなら、ブラジルのように混血を進めるということになるのだろうけれど、欧米やアフリカの血は、この小さな島国では、窮屈になってしまうのではないか。自由も個人主義も、なんだか、日本に入ってきた途端に変な形になってしまったのではないのかな。

あとスキーができるのも三ヶ月ぐらい。長いような短いような。ちょっと心配なのは、そこまでエクストレイルくんは、トラブルなくもってくれるのか。

電車の中で、三十台前半ぐらいの男女が話しているのを聞いていてなるほどなと思った。晩婚化が進むのは、今の若い人はいつまでも「叶わぬ恋」をしているからかもしれない。だとしたら、それはそれでいいのかな。

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2019.01.23

不安と愛




姪の様子を眺めながら、もし何かあってこの小さな命が消えてしまったらという不安を頭に浮かべてしまう。きっと親というものは、子供を持った時から自分が死ぬまでずっとそういう不安と共にあらねばいけないのではないか。子供を守り育てるだけでもとても大きなエネルギーが必要であるし、心配は尽きないのではないか。小学校や中学校の入学式で真新しい制服を着ている姿を見るだけでも大きな感動であるのも当然である。きっと自分のことで経験する様々な感動など、比較にならないほどのものだろう。一般的に言えば、誰もがその親になるのであって、少なくても子供であることには違いない。生きていくことはとても大変なことであるけれど、自分以外の命を守ることは、それよりもっと大変なことだ。愛とは、理性が支配するものというよりも、元から備わった本能の一つの表れなのだろう。理性などでは到達できないエネルギーの領域を愛と呼ぶのではないか。愛されることと愛すること、私たちはその狭間で命を繋いでいく。その危うい場所で、確証など何もない日々を繋いでいく、愛だけを頼りにして。

日韓の諸問題に関して、無意識に私たちは、日本政府の見解を信じている。もちろんそれは正しいのかもしれないが、正しくないという場合だってあるかもしれない。恣意的に国民を偽り、相手国を非難し、国内の支持を得ることも可能である。私たちは遠い場所で起こったことを確かめることなどできないし、密室で行われる議論の内容を知ることもできない。私たちは、自分に近いという点において、自国の政府を信じるわけである。しかし、政府と国民は、家族のそのように近しい関係にあるものなのだろうか。もしかしたらそれは対立するものなのかもしれない。私たちは内政だけではなく、外交問題においても常に批判的意識を持って政府を見るべきではないだろうか。

人は失くしたものを胸に美しく刻めるから
いつもいつも
何もなかったように明日をむかえる
Yuming

雪は、喪失のイメージである。それを眺めながら、過去を肯定する。無には、やがて新しい芽があらわれる。

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2019.01.22

ちょっと座り心地の悪い椅子




若き日の狂気は、専ら性的衝動によるものであった気がする。老いてから後、燻る狂気は、知性の反証のように容易には理解できないものである。

近頃自分の中に芽生えそうになる小さな狂気に怯えることが時々ある。その度、背中を丸めておとなしくしようとする。聞き取れないほどの小さな声、ゆっくりとした動作、あらゆるものを受け入れようとするうわべだけのやさしさ、すべてが、狂気に怯える自己を制するためのものであるのかもしれない。

狂気によって広げられた新世界の知性による追認。知性によって狂気を分析しようとする試み。



張布がチョコレートで汚れてちょっと座るのをためらってしまう椅子を買い換えようかなと近くの家具屋さんに行った。見た感じが気に入って、試しに座ることもなく買った椅子はちょっと座り心地が悪い気がする。こちらが何も言ってないのに値札の半値以下まで価格を下げてくれたので、イケアなどの量販店と比較してもまあその値段ならいいかなという感じになって衝動買い。質感は悪くないのだけれど、まあ家具はしばらく使ってみないとわからないから、慣れると良くなるかもしれないな。結婚する時に大塚家具で買ったアメリカ製のソファは、いまでもしっかりしている。それを見るたび、大塚家具のお父さんと娘さんの商売の方法の違いは、お父さんの方が正しいのかなと思ったりする。家具は、家の次に半永久的なものだろう。とりあえずしばらく使えれば、という感覚でものを買うくせがついているけれど、自分より長く存在するものも多くあるのかな。



小さな一つ折のしおりでさえ、たくさんの思いを伝えることはできる。言葉は、世界を凝縮する力を持っている。そのためには、一つひとつの言葉を自分のものにしなくてはいけないのだろうか。概念を写してはいけないし、観念を押し付けてはいけない。言葉はパッチワークの断片ではなく、世界を彫り出すナイフのようであらねばならない。

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2019.01.19

長浜にて






七十代後半くらいだろうか、白髪ときれいにハゲた人、「終のすみか」という言葉、人生百年時代といいながら、死にかたに誰もが迷っている。でも見方を変えれば、それを楽しんでいるのかもしれない。男はそうだけれど、前に座っている奥さんたちはいたって正気だ。女の人は死ぬまで、現実主義者なのかもしれない。正気では死にたくないな。何時でもいいから、酔っ払っている時に死にたいものだ。

「答え合わせ」をしたいなあなんて思うのは、僕だけなのだろうか。あの頃、あの時、何が正解だったのか。今、それはどうでもいいことだとわかっていても。



朝起きると雨、長浜に降るこの雨も例年なら雪なのかな。

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Flee




二つのことを覚えておこうとすると必ずどちらか一つを忘れてしまう。二つの大切な思い出を胸に刻んでいるつもりでも、どちらかは軽くなる。

花弁が厚い花は長く咲いていて、薄い花はすぐに萎れてしまう。同じように水を吸い、光を浴びていてもそうなのだ。

日本は、絶対に戦争はしないと決めた世界でも珍しい国だ。それが仮に戦勝国から強いられたものであったとしても、それを実現できたことは奇跡に近い。実際に今改めて、そう宣言し、憲法に明記することなんてできないだろう。その奇跡の出来事を、現実離れしていると書き換えようとする。奇跡なのだから、現実離れしていて当たり前である。奇跡もその中にいると普通のことに感じるということだろうか。奇跡であるが歴然とした事実であり、それは幻などではない。幻にたよってはいけないけれど、私たちの中にしっかりと存在する意識として、それは大切にしなくてはいけないものなのではないか。日本国憲法の精神に照らすなら、韓国をはじめとした極東アジアに対する私たちの行いは正しいのだろうか。今の政府の考え方は、「そっちがやる気なら、やってもいいぜ」という戦争放棄とはまるで異なる姿勢とは言えないか。政府は、外交問題において、何かにつけて「法の支配」という言葉を持ち出して正当性をアピールする。なんだかそれは、相手国よりも自国民に向けて発せられているもののように思う。国民は、なるほどと納得し、政府の方針を支持する。しかし、現政府は、まさに自国の法さえ、難なく踏みにじって自分たちの考え方を通しているではないか。それでは、法の支配ではなく、法の利用と言うべきなのでは。実質的な言論統制はすでに始まっている気がする。それは、日本人お得意の相互監視によって実現されている。

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2019.01.18

花を見ている




写真という結果が欲しくて撮っているというよりも、どこかへ連れて行ってくれる心理的移動手段として、旅上で何かを見ることを促してくれる眼鏡として、カメラを持っているのかもしれない。写真を撮るようになる前には、一人でどこかへ行こうなんて思いもしなかった。もっぱら、家族や友人に誘われて「ついていく」だけの旅行だった。旅先で何かを見つけようなんて思いもしなかったし、自然にも、人にも、町並みにも、特別興味はなかった。

スキーはどうだろう。うまく滑りたいとは思うけれど、競技をしているわけでもないし、基礎スキーの級を取りたいということもない。一人レジャースキーヤーである。そういう意味で言えば、写真もまた、レジャー写真家という言い方が当てはまるのかもしれない。かつての僕は、レジャー弓道家だったのだろうか。そこはなんとなく違う気がする。

鈴木京香という人は、まだ本当の輝きを放っていないのかもしれない。これから彼女の美しさが誰の目にも明らかになってくるのかも。個々の人間の可能性、花を見ている。

精神科医は、自殺率が際立って高いのだという。もともと、自らに備わった問題を解決するためにその道を志すからか、患った心と常に向き合う日々の中で壊れてしまうためなのか。精神科医とは、強い人なのか、弱い人なのか。弱さの可能性、僕はそこにとても心惹かれるのだけれど、弱さはただ弱さでしかないのか。強い心にこそ優しさは宿るという言い方をよくされるけれど、僕は、弱さしか、優しさを許容することはできないと思う。弱さとは何か、優しさとは何か、ということになってしまうけれど、優しさとはまさに弱さなのだと僕は思う。僕はそのことを肯定したいと思うのだ。

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2019.01.17

あたし と あなた




あなたは
あなた
とあなたは
言う

そんな遠くに
あたしは
いる

谷川俊太郎


生き抜くためにはすべての方法が許されるべきである。たとえ、盗みや殺しであっても、それは生き残るための手段ならば選択肢となる。だからこそ、社会は、国家は、そうならないための方策をとらなければならない。それが法というものなのではないか。法は、人々を管理するものではない。封建制においてはそうであっても、民主主義においては、より良き世界のための道しるべである。私たちは、「人間らしく」あるために民主主義を選んでいる。民主主義こそが、人間をそれ以外の生き物と分けるものである。

今、「一緒に暮らしませんか?」という今日から始まった韓国のドラマを見ていて感心した。お見合い相手が他人の悪口ばかり二時間言っていたと不満を言う娘にお母さんが、「それだけ情熱があるということよ」と諭す。確かにそうかもしれない。他人の悪口を言わないのは、他人にも自分にも諦めているということなのかも。生きる力はどちらにあるのか。考え方を変えさせられた。悪口をよく言う人は他人が自分と同じと考える平等主義者であって、悪口を言わない人は自分だけが特別と思っているとも考えることもできる。もう少し考え進めるなら、悪口を言う人は、他人の可能性を信じ、互いの協調によって実現する理想社会を探求している人なのだろう。

この時代に政治家になろうという人の多くは、野心の塊のような人だろう。あるいは、親族から受け継いだ既得権としての議席を嫌々でも引き継がざるを得ない立場の人。その二種類の分類で、議席のほぼ8割ぐらいは埋まっているのではないか。果たして、そういう人たちによって議論される国会が国民の意思を反映できるのだろうかと疑問に思う。

今もし韓国の立場を擁護する発言をしたらな「非国民」とか「売国奴」なんていう言葉で当然のように批判されるだろう。そのこと自体、この国はいつのまにか、どうなってしまったのかと不安に思う。韓国の悪口を平然という人は、もしかしたら、真の平等主義者なのかもしれない。日本と韓国は対等と思っているからこその発言なのだろう。

僕は自分の中でいろんなことを諦めすぎている。もう長い間そうであるから、それは普通になっている。

ここ十年ほどの間に日本という国は全く別のものになった気がする。国民がそれを求めたならば仕方のないことだけれど、全国民に対する洗脳のようなものがそうさせたように僕には思える。

眩しくて仕方がないので、前のコンタクトにしてみると今度は霞んで見えない。だから新しいコンタクトを作ったのだから当然である。どちらにしても見えない。見えないと諦めてしまう。執着心がなくなる。それはそれでいい気もする。見えないけど、コンタクトを外してメガネにすれば、見えないけど快適だ。メガネでもかろうじて日常生活はできることが今回わかった。とは言うものの仕事や車の運転には支障があるわけで、理屈からすれば、前のと同じコンタクトを新しく作ればいいのかな。コンタクトの作成は、病院やメーカーに依存しなくては仕方ないのだけれど、本当は自分で視力検査とか、色々試して作れればいいのになあと思う。きっと最適の組み合わせというのがあるような気がするのだけれど。

韓国と日本は、「あたしとあなた」みたいだなあと思う。

ロマンチック、いつのまにか死語になったなあ。夢がなくなったのではなく、夢が現実になったからかな、まるでディズニーランドみたいに。

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2019.01.15

スキー帰り

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今シーズンのスキー場は明らかに空いている。12月の雪が少なかったから、みんなスキーに行くということを忘れてしまったのだろう。洋服の売り上げと同じで最初が重要ということかな。お陰でお正月もこの連休もリフト待ちというものが皆無であった。ただ、スキー場も関連産業も相当厳しいことになるのではないか。近年、経営を安定させるための投資をしているところが多いからもうギブアップしてしまうとこが出ないか心配だ。白馬も外国の人が多くなった。もう英語対応ができないと働くのも難しいという状態ではないか。欧米人と白馬はよく似合う。岩岳に新しくできたテラスは、まるでヨーロッパアルプスのリゾートかと思うような雰囲気であるし、大糸線の車内は、「世界の車窓から」に出てくるような状態だった。こちらとしては、何となく外国にきているかのような錯覚を覚えて楽しいのだけれど、もし円高が進んだりしてこの人たちがいなくなったらと考えると本当にガラガラのゲレンデを想像してしまう。日本人はスキーをしなくなったのか、それとも本来ボリューム層である若者の絶対数が少なくなったせいか、あるいは、娯楽が多様化したせいなのか。まあ考えれば、夏は夏で海水浴というのも昔のような状態ではなくなっているし、こんなものなのかな。何にでも言えることだけれど、日本においては、今までが異常であったということで、いろんなことが、相応になってきているということなのだろう。もしかしたら、田舎の消滅なんかもそういうことなのかもしれない。スキー場もゴルフ場も、大きな旅館もありとあらゆるものが、MAXの状態に対応していたわけで、淘汰はこれからも続いていくのだろう。そして、そこにはあまり痛みなく自然に縮少するのではないか。大切なことは、国がそれを適切にコントロールすることである。分相応な社会、分相応な経済、分相応な国威に落ち着かせれば良いのである。それが国民も不幸とはならないだろう。


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2019.01.13

栂池にて






間違って禁煙の部屋を取ってしまった。ただ、そろそろ一晩禁煙の練習をしないといけないなと思っていたので丁度いいかな。早く寝るという方法で対応する。

近頃、ホテルのレストランで夕食を一人でとることが楽しみになってきた。ビジネスホテルではなく、スキー場のホテルでは、まあ、一人で食べている人はほとんどいない。そこには、この世界の縮図としての小世界がある気がする。ひとりでない人は、よほど仲が悪くなければ、相手を見る。僕はひとりだから、まわりを見るしかない。聞き耳をたてるわけではないけれど、物語の小さな断片が聞こえてくる。

それを言ったら社会が自滅するからか、マスメディアも政府もそこには言及しないけれど、現代社会における様々な問題、メンタルやハラスメント、少子化や未婚化は、経済的な原因よりも社会が個人に求めるものが、過去に比べて高度化していることが原因であると思う。人間はどこまで能力を高めることができるのか、それは全体としてではなく個としてである。無理なことは無理なのではないか。無理と言ってはいけない風潮が、同時に広がったことも重なっているかもしれない。



SFの大きなテーマは、宇宙旅行と異星人との遭遇とタイムマシンだろうか。日本のSFには、そこに戦争が含まれる特徴があるかもしれない。宇宙に行きたいとも異星人に会いたいとも、未来に行きたいとも、あまり思ったことがないけれど、タイムマシンで自分が存在するレベルの過去には行きたいと思う。それはSFというより感傷的な思いからかな。僕にとってのスキー旅行は、タイムマシンみたいなものかもしれない。信州までの距離と時間は、ちょうどいいタイムマシン感なのだ。安全で乗り心地の良いタイムマシンを買おうかなと思ったら、エクストレイルくんの調子が良くなった。あと二回スキーに行ったら二十万キロ越えるかな。

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2019.01.12

信濃大町にて














信濃大町から大糸線に乗ると車内は半分以上が外国からのスキー客。まるでNHKの「世界の車窓から」みたいな状態だった。簗場駅で降りてすぐそこに見える鹿島槍スキー場まで歩いてみる。小一時間で1本半ぐらい撮れた。

ふと思った。今まで「ありがとう」なんて言われたことがないな。要するに、この年になるまで、他人のために何かをしたということがないということだろう。何ということだ。さてどうしよう。きっと幸せとは、他人のために生きるということなのだろう。それがなぜ幸せと感じるのか。無になるからかな。自分が無になる。その無が、至福なのかもしれない。それは全然実感ではなく、仮説なのだけれど。

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«生ぜしもひとりなり 死するもひとりなり