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「境界のエクリチュール」 in Book of days

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2021.04.21

No title な日

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韓国社会には、いい意味でB級感が残っているような気がする。そのことが、まだ民主主義への失望を回避しているのではないか。

新しい靴を買うとどこかに行きたくなる。それは、遠くから差す光とはまた違った導きなのかもしれない。

少し前までは、「中国なんて真似ばかりして品質も商習慣もなっていない」という声をよく聞き、何だかそれが無難な世間話みたいになっていた気がする。それがここ数年で大きく様変わりし世界経済において、そのダイナミックさと技術の向上が脅威になった。そして今、分野によっては日本もアメリカも、すでに相手にさえならないほどの進歩が現実のものになっているようだ。菅さんはアメリカまで行って共闘の約束を取りかったようであるけれど、アメリカはすでに今の中国を冷静に分析し、どう関係性を刷新するかというところに行っているのではないか。中国に世間で言われるような「悪意」はないように思うのは僕だけなのだろうか。ただ純粋に世界の中で正当な方法で自分たちの国の力を大きくしようとしているということなのではないか。それを周りが悪意と決めつけるなら、それは相応の方法をとりましょうということになってしまう。それこそ、世界の危機につながる恐れがある。中国は狂気の独裁国家ではなく、世界でも最も冷静な知略国家なのではないか。

何だかまたまた雲行きが怪しくなってきた。治療方法が見出されていないわけであるから、感染者数が過去にない推移をしているとすれば、ワクチンは少しずつ広がっているにしろ、去年よりも状況は悪いということになる。でもみんな気持ちだけはコロナ禍に順応しつつあって不思議なことになっている。ゴールデンウィーク、どこへも言っちゃダメなんて風潮にはなってほしくないなあ。

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2021.04.19

四月は間延びしている

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平和、自由、平等、愛、生活、権利、義務、尊厳、現代社会において私たちが大切であると考えるこれらの言葉は、個別に語られる時、最も重要なものとして扱われるわけであるが、同じ線状に並べてみると優先順位はどうなるだろうか。もちろん比較できるものではないけれど、相関しているものも少なくない気がする。戦前ならここに天皇なんていうものも含むと、建前的には絶対のものだったということなのかな。

阪神巨人か巨人阪神か、早慶戦か慶早戦か、一応言うなら、同立戦か立同戦か。要するに、自己と他者の延長線上にそれらはあり、私たちの世界観は、世界の中に自分が存在すると言うことではなく、自己を取り巻いて世界はある、もしくは自己と引き換え可能なものは世界のすべてということになる。自己の消滅はすなわち世界の消滅であるけれど、それを補うための想像力が現実の世界を維持しているとも言える。

先の予定を考えているとどんどん未来を先食いしているようであっという間に時が流れて怖くなってしまう。過去は気付かぬうちにどんどんと遠ざかってしまい、学生時代なんてすでに三十数年前のことで、思い出と呼ぶにはあまりに遠い場所であるような気がする。何だか、ゆっくり流れる怠惰な今日だけが安寧を得る唯一のものである。今年の春はなかなか進まない。四月って、忙しい時期のようで間延びしているようにも思う。GWまであと二週間だけれど、その短い期間でさえも、何が起こるかわからないような気がする昨今である。withコロナという言葉もいつの間にか使われなくなった。コロナ後と言ってもいつのことやら。科学が進歩しても、案外感染症の拡大を抑えるには、中世と同じくらいの時間が必要なのかもしれない。しかも結局、それは打ち勝つという能動的なことではなく、人間がそれに順応するという受動的な終息である。人間は津波に抗えないように、ウイルスにも抗えない。できることは、身を縮めて待つしかないのかもしれない。政治家の偉そうな言葉に従うのではなく、自分がどのように対処するかということが生き残る術になるのだろう。

コロナウイルスは、世界を穏やかにしているような気がする。この期間、アメリカでも日本でも独裁的な政権は倒れたし、北朝鮮の挑発もほとんどない。内政下の局地的な混乱はあるが国家間の問題は極端に少なくなっているのではないか。これはどういうことだろう。もしかしたら、現代における相関は過度になっているのかもしれない。個々の人々の間においてはどうだろう。ここでは注意が必要かもしれない。逆に濃密になってしまっている可能性がある。なかなか見えてこないが、それによって生じる居心地悪さが表面化してくるのはこれからかもしれない。

一日天候がずれてたら、いい週末だったのになあ。

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2021.04.18

あなたを好きだったのは昨日までのこと

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もともとこの世界は複雑にできている。それは私たち自身を構成する要素を見返してみれば、世界のすべてにおいて理解可能だ。

すべてのものをきれいに消滅させるのはとても難しいことかもしれない。でも、それを趣味と考えれば、結構楽しめるのではないか。もちろん自分も含めて跡形もなく消え去ることができるなら、それは美しいものではないか。

思い返してみれば、二十代は恋のことで頭がいっぱいだった。三十代は地域活動にすべてのエネルギーを使った。四十代は写真のことばかり考えていた。そして五十代は今に至るまで、スキーと韓国のことをでほとんどが明け暮れる。もし、このエネルギーすべてを一つのことに使っていたらもっと立派な人になれていたかもしれない。仕事のことばかりを考えていたら会社を大きくできたかも、いや反対に大失敗してつぶしていたかもとも言える。まあみんなそんなふうに時をやり過ごしながら生きていくのかな。テレビでスプリングスティーンのコンサートをやっている。彼は、時をやり過ごしてなどいないだろう。これだけの人気を獲得しながら、一貫して社会と向き合い、自らを律している。彼はキリスト像に似ている気がする。キリスト像は、きっとその姿から人々を信教の道に導くように造形されているのであろう。であるとすれば、信じるに値する容姿ということだろうか。彼が歌うのは、この生きづらい世の中で、どうして生きていくか。ということであるような気がする。この世界はバラ色ではないし、人々はいがみ合い、次から次へと問題は起こる。それでも生きていかなくてはいけないし、少しは良くしていかなくてはいけない。失望や絶望の境界で、辛うじて溺れてしまわないようにあがきながら目にする光景、それを美しいメロディに乗せて人々と共有しようとする。

人間誰でもカミングアウトするようなことは持っていて、きっとそれはして仕舞えば楽になってスッキリ生きられるのかもしれない。逆に言えば、他者から見た自分を知らう知らずのうちに演じるようになっていて、それをいかにうまく生きるかが大切なことになってしまっているのかもしれない。カミングアウトは勢いでしてはいけない気がする。理性によるコントロール化で行われなくてはいけない。

連休までもう雪は降らないかな。あーあ、冬は解けてしまったね。白内障の手術がのびのびになっている父が、次の予約をしようとすると十月になるということで、父曰く「十月やったらもう死んでまんがな」と。まんざら冗談でもない。年をとると先のことがわからなくなる。ここで考えることは、それでも先の予定をするべきなのか、きっぱり予定などやめて、その日暮らしをするべきなのか。

アメリカには、現在でも激しい差別がある。しかし彼らは、可視の差別のある日常で考え、発言し、行動している。だから百年後にはそれは跡形もなく消え去っているかもしれない。日本では、アメリカと同等の差別があるにもかかわらず、人々はそこから目を背け、あたかもそんなものは過去の話と言わんばかりに平等を語る。だから百年後もきっと差別は残るだろう。

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2021.04.16

導くひかりがなければ

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西暦2500年ってどんな世界になっているのだろう。とサルと人間のキメラの記事を見て思った。「倫理的に」なんていう考えはすでにあまりに軽いものに感じてしまう。それはすでに中世ヨーロッパの段階で宗教が科学を制限したことと同様なのかもしれない。

ぼくの標準木の桜が散って、その横にハナミズキが咲いた。この木がハナミズキであることを幹にかけられた行政のプレートを見て初めて知った。車を走らせると街路樹にはハナミズキがたくさん植えられていることに気がついた。ハナミズキはアメリカのものであるらしく、だから桜ほどは注目されないのだろうか。

何だか今週末も悪天候らしく、予約していた宿をキャンセルしてスキーに行くのをやめた。でも来年は行けないような気がしているから、とても残念だ。すべてが終わりに向かっている。いや終わらせないといけないということかもしれない。なぜみんな、老いていく過程で希望をつなぐことができるのだろうか。こんなふうに考えるのも天邪鬼な性格のせいかな。雨じゃなくって雪だったら後悔するだろうな。明朝、山が雪ならもう一度考えよう。雨なら京都へ気になっているカバンを見に行こう。次の旅に持って行けるように。

そう言えば、昨晩旅について考えていたのを思い出した。旅が非日常的行為であるのは、「日常」を離れるからというよりも、そこに選択が繰り返しあるからではないか。旅先で私たちは、どの道を行き、何を観るのか、列車の時刻、宿の選択、何を食べるのか、たくさんの選択に向きあう。日常では、それらはできるだけ悩まされることがないようにとパターン化されている。それを一旦キャンセルするのが旅ではないか。そう考えれば、旅はどこででもいつからでも始められる。それはドキドキするような経験をもたらし知らない場所へと私たちを導いてくれる。例えばこんなふうに考えるのもいいかもしれない。今日の午後は旅に出よう。要するに、選択することを意識的に行い、その結果を楽しむ。夕暮れを待つのではない、その場所まで行くのだ。

自然の産物であるイチゴでさえ文字通り「粒ぞろい」のものを作るのが日本人である。それを実現しているのは、教育なのか、世間なのか、利に敏いということなのか。

スキーに行かなかったら、そのお金でラジオをもうひとつ買おう。スキー場の光は、きっと強く私を導くものなのかな。ラジオは、飾られる絵や写真と同じに「窓」なのかもしれない。

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2021.04.14

かわりに泣く

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公私ともに、こんなに未来が見えないことは今まであっただろうか。まるで深い霧の中で足下だけを確かめながら歩いているようなものである。

全体主義は、本来は違った意味があるのかもしれないが、現代的にいうなら、社会を維持するために個が私欲を捨て我慢するというようなことではないか。そう考えると、政府が国民に言い続けていることと妙に符合するような気がする。もちろん、そのことが結果的に個の最大利益になるならば、一概に間違っているとは言えない。ただ、アベノミクス以降、実際に生じている格差の急速な拡大は、全体主義の恣意的な強化が元になっているのではないか。

コンビニで棚からおにぎりを取ると角が欠けているのが袋越しにわかった。何かちょっと奇妙な気がしたのだけれど、それを戻して普通の形をしたのに替えるのはとてもいけないことのような気がした。「普通」なんてない。大量生産で作られるのであろうおにぎりだって、いろんな形をしたものがあっていいし、みんなと違う形をしていてもおにぎりには変わりない。なんていうたいそうなことではないのだけれど、それはやっぱり大切なことである気がした。

「詩人とは、代わりに泣いてあげる人だ」というのは、ある韓国映画のセリフ。確かに韓国の人の心情にはそういうところがあるような気がする。日本なら「一緒に泣く」ということになるのかもしれないが、「代わりに泣く」ということは同情ではないだろう。悲しみを引き受ける、あるいは、対象化された悲しみを移転させるということだろうか。悲しみというものは、もしかしたらできるのであれば、そういうふうに処理するものかもしれない。

過去に絶望するなんていうことはない。絶望とはもっぱら現在以降の未来に感じるものである。でもなぜか、未来はいつも希望に満ちたものとして語られる。「明日は明日の風が吹く」というのは、どうにもならない今日をやり過ごす魔法の呪文であるけれど、今日と明日の違いはなんだろう。

そうか、植物には雨が降った日に水をやればいいのか。ここで育つものならば、きっとそれが水やりの頻度に違いない。

永遠なんて最も残酷なものに違いない。触れたら崩れてしまいそうな乾いた花を見てそう思う。瞳を濡らす悲しみだけが生きている証なのではないか。

眞子さんのことを見ていると、それが決して天皇家の問題ではないことに気がつく。あれはまさに、多くの人々が身近に直面する問題である。天皇制の温存は、まさしく個人が自分の生き方を決めることができないという封建社会の名残りをよしとする保守的意識から生じるものなのだろう。ここまで来ると、国民はみんな眞子さんの親みたいな気持ちでことの成り行きを見ている。本来なら、色んな問題があったとしても本人が責任を持って決断するならばそれを尊重するべきである。でも、そうはいかない。そうはいかない理由を天皇制であったり、国民の負担であったりと後付けするけれど、それでは個の意思を蹂躙することになる。国民誰もが、二人はよく考えたことであるならば、ということになるぐらいでなければ、日本の民主主義の稚拙さを曝け出すことになってしまう。元を正せば、民主主義の上に天皇制が乗っているという矛盾こそが問題なのである。そういうことが、現代の日本でも、社会の隅々に至るまで浸透しているという不思議さだ。これを機会に、国民がその矛盾と向き合い、皇室を高い塔に幽閉している自分たちの罪に気づき、その安寧から脱却する勇気を持たないといけないような気がする。その矛盾を解くことで崩壊してしまう身の回りの世界に一時的に耐えることこそが、新しい世界へと向かう道ではないか。他国ではすでに済んでいることを私たちの国では先延ばしにしているに過ぎないということのような気がする。

生命は、何らかのバランスの上でかろうじて維持されている。それは、個々の人間も同じことである。それが外的要因によって崩れてしまうと最も簡単に絶たれてしまうものなのではないか。そう考えると、他者への助言は、常にそのバランスを考慮した上で行うべきであり、その一方の非を指摘するなら、バランスの崩壊に至らせてしまうことになる。

出口を探しているのに、なぜかそれに反して、たくさんの道を示す人が現れる。なかなかうまくはいかないものである。

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2021.04.12

窓の向こう

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六十歳は生きてそうな気がしてきた。七十歳って、すでにその歳の自分が想像つかない。八十歳というとなんだか空の星を見上げる気分だ。そこから上は考えることすら出来ない。六十歳は生きていなければならない責任が今の経緯からすればある。七十歳はどうだろう、そこまでいけばほぼ社会的責任はクリアしているかな。八十なら誰にも後ろ指は刺されないだろう。やっぱり六十五ぐらいはなんとかしなくっちゃいけないのかな。と言っても、あと9年だから、途方に暮れるほどの年月ではない。来シーズンはスキーに行けるかな。父が白内障の手術をして、驚くほど意識が改善すれば行けるかな。でもやっぱり無理そうだなあという感じで、新しい板を買うのはもうやめよう。僕にいまいちやる気がないのを見透かしてか、銀行が、M&A を進めるけれど、そう言われると続けたくなる。それにしても、あと10年後ぐらいだと、日本の製造業はどんな状況になっているのだろう。プラスチックに限れば、原料メーカーにも機械メーカーにもやる気がない。ニーズは、激減しているわけではないが、まあ、少しずつは減少するだろう。でもその速度以上に、成形メーカーが減少するかもしれない。いやそうでもないのかな。でも、なんらかの淘汰は進むだろう。今年は、出生数は八十万を切りそうだとのこと。その数字は、コロナ禍が過ぎれば元へ戻るのだろうか。人間の数も、社会環境に合わせて自然に増減するものなのだろう。そういう意味では、人間もまた自然の一部である。今世の中で言われている論理は、人口が減少すれば、経済が立ち行かなくなるということであるが、本当にそうなのだろうか。確かに歪な人口ピラミッドが崩壊しないためには、できればその修正が必要なのだけれど、この小さな国に一億数千万はどう考えても過剰であり、多く見ても八千万というところではないか。

精神的なことに対する身体的耐性が弱くなっている気がする。これも老化なのだろうか。それとも経験値がそうさせるのか。十月に買った小さな絵をやっと取りにいく。ギャラリーでは、福祉施設で働いていらっしゃる方の写真の展示がされていた。何気ない景色であるけれど、心の引っかかる写真だ。それを眺めながら、自分で撮った写真を部屋に飾るのもいいかなとふと思う。部屋に飾る絵や写真は、窓の役割を果たすものとして考えられたのではないかと思う。その窓の向こうに何が見たいのか。それが作品を選ぶ基準になるのではないか。こんなことはないだろうか。美しい風景を飾れば、今すぐにでも部屋を出てそこへ行ってみたいと思う。反対に邪悪なものを飾れば、ここにいる方が安心だと思う。あるいは、それが神秘的なものであるとすれば、自分だけが窓を通してそれを目にしているような気になるかもしれない。窓の向こうにあるのは、未来だろうか、過去だろうか。それとも、現在なのか。現代美術のような既成の価値では理解できないものは、窓の向こうに何を見せようとするのか。窓には鏡が嵌め込まれているかもしれない。あるいは素通しなのかも。窓はただ窓でいい。そう言ってしまったらおしまいだけれど、近頃のやたら窓を多くとったハウスメーカーの「明るい家」よりは、窓のかわりに絵や写真のある部屋の方がいいような気がする。

「死にたい」と口にする人は本当に死にたいのだ。「死にたい」という希望を持っている。その希望を、他人は自分の都合で止めたりする。要するに、希望を奪うわけである。そういう考え方も出来るかな。もし、止めるのであれば、他の希望を示し、置き換えることを勧めるべきなのだろう。でも、希望って、自分の中からしか生まれないものでその身体と密接に繋がっているものかもしれない。

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2021.04.11

なんて詩的じゃない生き方をしているんだろう

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人間が、自然から乖離し始めたのは何時だったのだろう。火をおこし始めたときか、耕作を始めたときか、火薬を手に入れたときか、動力を発明したときか、あるいはもともと異物として誕生したのが人間なのか。

生きることの苦しみの多くは、何らかのスケールにおいてマイノリティであるということから生じるのではないか。だから誰もが、マジョリティに属そうとするし、その振りをする。でも、実は誰もが、何らかのスケールにおいてマイノリティであるが故に苦しんでいる。このことを解消する手だては、やはり徹底した個人主義意識であるような気がする。どこに属しているのかという意識の解放こそが、人を自由にするのではないか。でも、自由は同時に言い知れない不安なのかもしれないけれど。

アフリカのサバンナを映す番組を見ていると、水辺を求めて様々な種の動物たちが代わる代わるに姿を現す。山に登って切り株に腰掛け何気なく足下の地面に目をやると、たくさんの虫たちが重なるようにせわしなく行き来していることに気づいて驚く。周りを見渡すと目に入るのは人間だけであるのが私たちの社会である。人間だけが他の生き物とは共存することなく、自分たちだけで出来た社会を世界のすべてであるかのように錯覚しているのかもしれない。しかし、依然としてそこにあるのは荒野である。多様な共存の場よりももっと厳しい荒野がそこには広がっている。

また、韓国は保守に大きく振り戻そうとしている。日本の野党が言うように政権交代可能な政治が健全であるとすれば、韓国は極めて健全であるということになる。韓国の政治はアメリカに近いのだろうか。韓国で保守とリベラルが常に拮抗し、権力を取り合うのは、地域によって堅い支持層があるからかもしれない。そして、それは日本統治からの解放時点から続いている。韓国の人たちは、日本に比べると極めて政治的であるような気がする。ソウルの中心、景福宮の周辺では、週末毎にそれぞれの立場の大きなデモが行われる。それを眺めているのが、僕の韓国旅行の一つの楽しみでもあるのだけれど、不思議なのは、それを管理するたくさんの警察官が案外のんきな雰囲気を漂わせているところだ。韓国の人たちは、民主主義を楽しんでいるのではないか。あるいは、その可能性に、日本のような失望を抱いていないのかもしれない。

戦後の日本には、重なり合った二層の社会が存在しているような気がする。表層はアメリカに与えられた世界でも先進的な民主主義、そしてその裏側には張り付いたまま消えることのない封建的な、あるいは全体主義的な社会がある。私たちは、その両方を許容し、うまく使い分けているのかもしれない。けれど、結局生きづらさは、そのことによって解消されることがないとも言える。

何だか日本は「気持ちの悪い国」になりつつあるような気がする。気のせいかな。そうならないためには、たとえ非常事態であっても、国民が国家、あるいは権力に依存しないことではないか。

Instagramを見ていると、石田ゆり子をもってしても、人生には大きな悩みがあるように思える。これはもう、豊かであるとか貧しいとか、成功しているとか不遇であるとかいうことではなく、どんなふうに生きようとも、生きることは同様に苦しいもので、あとは気の持ちようというぐらいのことで、でもそれはやっぱり苦しいのだ。今気がついたけれど、気の持ちようで、気持ちなのか。気持ちというのは、気の持ちようということなのかな。

コロナウイルスに対する政府の対応は、何だか日々僕が直面する問題への対処に似ているような気がする。何事もそううまくはいかない。結局時が過ぎることで解決しているような気になる。

20世紀は、世界において二つの理想が争った時代であった。21世紀、私たちは自分たちの歩んでいる道以外にどこを見回しても歩むべき道を見つけられない。廃れた道は雑草で覆われ、今やその痕跡を見つけることさえ難しい。

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2021.04.07

ある春の日

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日常には異物が含まれている。きらきら輝く宝石もあれば、黒い影を落とす焼けた骨もある。以前に比べると、死ぬことは、コミュニティや人のつながりの中で簡単なことになった。コロナ禍はそれにいっそう拍車をかける。死が軽くなっているのか、それとも生、それ自体がそうなのか。

平等、同権、機会均等、様々にジェンダーに関する意見が出され、法制化が進むけれど、要するに自由であればいいということではないか。改革が歪に進むばかりに、新たな社会的強制が生じてしまうなら、また苦しむのは女性ということになる。

会社に勤めている頃、イオンは、東北の田んぼの真ん中に現在のイオンモールの元になるような店舗を作り始めていた。それは、安売りを使命と考えるダイエーや徹底した利益管理を行うイトーヨーカドーとはまったく違った方法で、荒廃していく地方の商業的受け皿を作ろうとする広範囲からの集客を見込んだものであったのかもしれない。それから三十年、今では大型小売店の代名詞は、全国ほとんどの地域で「イオン」である。

10年後、僕はどこでなにをしているだろう、どんなふうになっているだろう。十歳の時、僕はその自問にどんなことを思い浮かべただろう。二十歳の時は、三十の時、四十の時は。なぜ人は未来を想像するのだろう。それは時に残酷なことではないか。

五十年以上生きると、世の中の価値の変化を実感することになる。死というものについてさえ、それは大きく変わったような気がする。それはまさに、私たちが生きることの価値の変化を映しているのかもしれない。

冬の初めとこの時期には、一日に何度もスキー場の天気予報を見てしまう。

母が、「今日は秀敏の」と話し始める。「昼ごろ連絡があってなあ。散髪屋のおっちゃんが親切で市民病院へ連れて行ってくれはったけど、すぐ奈良医大に行ってたらなあ。傷一つないきれいな顔やったのに・・・」運命は、過去は変えられないことから始まる。その過去の上に降り積もっていく日々が人生である。考えてみれば、子供の頃の記憶って、今となってはほんのわずかな欠片でしかない。幼稚園の父親参観の日、父が仕事で遅くなって、帰りの通園バスの窓からやっと来た父の姿を見たこと。それに48年前の今日、病院の処置室に横たわった弟のシーツから出ていた小さな足。それから数日後、久しぶりに登校した教室で、足の震えが止まらなかったこと。それ以外に覚えていることなんてほとんどないかもしれない。もしかしたら、僕はその日に生まれ、その日から始まったのかも。雪は悲しみの上に降り積もる。そして、その悲しみが新しい息吹となるまで覆い隠してくれる。そして、明日は妹が生まれた日だ。この世界は、全くよく出来ていて、残酷に美しい。

言わなくていいことを言ってしまうのは、言うに足りるほどの思索が不足しているせいか。沈黙が必要である。そして、その沈黙をもってしても世界との調和が崩壊しないような人としての佇まいが。

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2021.04.04

花と雨の時季

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飯島真理の歌声は、まるで遠い「あの日」からきこえるこだまのような気がする。当時、ファンだったわけでもなく、マクロスなんて知らなかったけど、その歌声には特別な響きを感じたのを思い出す。声って、実はすごく個性があって、その人の何かを表しているものなのではないか。

「私をスキーに連れてって」ではないけれど、キャリアからスキーをおろすこと、硬くなったブーツに苦労して足を入れウェアのジッパーをあげること、袖のポケットにリフト券を差し込むこと、それらすべてが愛おしく思える。スキーって、そういうこと全部が素敵なのだ。だから一人で行っても、一人で楽しめる。

誰もが、何かを選んで、あるいは何かに従ってこの荒野を歩いていく。導かれる、総じて言えばそうなのかもしれない。ルールなどあるようでない。幸せなんて概念的で意味のないものかもしれないけれど、この人生には、何かあるような気がする。

ラジオで聞いた言葉。「プロ野球選手にはなれないけれど、野球選手にはなれる。」要するに、どんなふうに生きていくかは誰もが選べるということ。稲垣えみ子さんの視点、それに対する渡邊あゆみさんの受け応え、とても共感を覚える。ちょっとメインストリームから外れると自分らしく生きることができるのだろう。それには勇気と知性が必要かもしれないけれど。

前から少し気になっていたけど、イヤホンで音楽を聴いていると、右の耳が左に比べると少しだけ聴こえないような気がする。これも老化の一つかな。見えないことと聴こえないことはどちらが感覚的に困るだろうと考えることがあるけれど、見ることは情報を得ることで、聴くことは感情に関わることのような気がする。まさに防犯装置におけるモニターとブザーのようなものだろうか。どちらを取るかと言えば、聴こえることかな。もちろん、そんな安易に選べるものではないけれど。

シーズン最終営業日のホテルは、安堵と寂しさが漂っている。働いている人たちの顔や言葉には、少しだけそんなものが表れる。今年も最後にプリンスに泊まれてた。今年から全室禁煙が残念だけれど。プリンスホテルはコストカットを徹底することで辛うじて時代の変化を乗り越えている。それでも、志賀高原で三館の多くの部屋数を抱え、他とはレベルの違うゲレンデのクオリティを維持しているのはプライドだろうか。一流のホスピタリティとは言えないかもしれないが、べたべたしてなくて僕にはちょうどいい気がする。やっぱり、志賀高原でプリンスに泊まるのが、一番パラダイスを感じられる。そうか、備品の灰皿を分けてもらえるか聞けばよかったなあ。

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2021.04.01

主流

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要するに世の中の仕組みがタイトすぎるということなのではないか。例えば、社会をより良いものにしようとするための法律はどんどんと増えるわけであるけれど、その分減らしているものもあるのだろうか。お店のサービスにしても、様々な組織における改善にしても、追加されるばかりで減らすことはなかなかないのではないか。結果、すべてのものがどんどんと追い詰められて身動きできなくなっているのが現代社会と言えないだろうか。時にはそういう決め事の量が現実的ではないところまで行って、できないことができるかのようになる。そういうことは一体誰を幸せにしているのだろうか。本当は、世の中なんて、人生なんて「しかたない」と半ば諦めることで成立するものであるはずなのに、しかたがないと諦めることさえ許されない状況である。ワイドショーは芸能人を追い詰める。野党は与党の失敗を追い詰める(今は力の差があって追い詰めるまで行かないのが実際だけれど)。何だか、追い詰めることが、生存競争に勝つことであるというような風潮が、世の中全体を占めているような気がする。

愚痴を言っていても仕方がない。でも、愚痴を言い合うことで生きることの苦しみを緩和することはできるのかもしれない。特に日本社会のような全体主義的仕組みにおいては、一人ひとりは愚痴でも言わなくては社会の沼に溺れてしまうしかない。ポジティブシンキングなんていうのは、個人主義が浸透した社会において可能なことではないか。どうも考えてみれば、バブル崩壊後に自信を無くした日本人が、欧米の考え方をたくさん導入し始めたところから、日本社会は歪んできたように思う。もちろん骨組みから欧米化すればいいのだけれど、旧来の日本社会の骨組みの上に形だけの欧米的考え方を張り付けたところに悲劇はあるのだろう。誰でも個人が社会を変えられるという実感があるからこそ、物事を前向きに考えられるわけで、そうでなければ、ただただ消耗してしまうということになる。

高山植物は、好き好んで環境の厳しい高い山に花を咲かせているわけではなく、競争を避けようとして自分たちの居場所をそこに見つけたのだろう。それは人間だって同じなのかもしれない。

高校野球を賛美する危うさは、「従うこと」が社会の中で生きることであり、個として活きることという前時代的な、あるいは全体主義的な考えの肯定である。もちろん彼らがそんなことを前提にして野球に打ち込んでいるというわけではないけれど、結果として社会に与え続ける影響は大きい。とはいうものの、昨今、マスコミがその人気を維持しようと躍起になっているにもかかわらず、少しずつ国民の熱は冷めてきているような気もする。一番いい方法は、学校とは別のクラブチームで野球をし、高いレベルを目指す人は目指すということだと思うけれど、学校を背負い、地域を背負って戦うという美意識が彼らの努力を支えていると言えなくもない。と書くと、やっぱりそれも、なんだか日本が強国を相手に戦争を遂行したことに繋がってしまうからちょっと怖くなる。スポーツ、特に学生スポーツでは、優れた情熱的な、また厳しい指導者の存在が、最も重要となる。それで結果が決まるとさえ言えるかもしれない。でも、本当は、学校体育の範囲においては、指導者というよりも緩やかな監督者でいいのかもしれない。スポーツって、改めて考えると何だろう。生きるということの「主流」ではないだろう。と書いて、主流を生きるのが最もシンプルで自分に対しても他者に対しても誠実でいられるのではないかと思う。確かに今の社会は、高度化、複雑化、巨大化が甚だしく、それは分業によって維持されているわけであるが、その中でも主流はあるのかもしれない。

政治は社会にメリハリをつけることで国民の支持を得ようとするけれど、本来の政治の役割は、国民の生活、日常をできる限り穏やかなものに保つことなのではないか。それ以上のことは国民個々が考えることである。

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2021.03.30

言葉と形

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近頃、人前で書類などに記入する時に緊張する。漢字がさっと出てこないのである。難しい字とかいうことではなく、平易な字でもそれは変わらない。安心して書けるのは自分の住所と名前ぐらいだろうか。まあこれは、日常的に文章を書く習慣があるかどうかということだと思うけれど、ある時から父が書類を書きたがらなくなった理由がわかるような気がする。

碌山美術館を訪れたのは三度目だろうか。早世した人に惹かれるということは、以前からあることだけれど、近頃彫刻にも興味がある。それにしても、人は、四十までに死なないとかっこ悪いのではないかと思ったりする。多く見ても五十までだろう。女性はそうでもなくて、逆に凛としたおばあさまなどを見ると感動するけれど、男でそういう人はなかなか思い当たらない。「女」という代表作がある。大袈裟に言えば、血を吐きながら叶わぬ恋の相手をモデルとして製作されたものだ。この作品が何とも美しい。完璧に美しいということではなく、作者の思いが作品の身体を形作っているのが伝わってくるような気がする。ヌードの全身像だから、そればかり眺めていると周りから変に思われそうなのだけれど、いつまでも見ていたくなる。

家庭環境によって家に居場所がなくなった子供たちは非行に走る。結果学校にも居場所がなくなり、家でも学校でもないところに居場所を見つけるしかなくなる。自分の存在を認めてくれる人がいる所ということになるのだろうか。今ではその居場所づくりにいろいろな方法が為されているけれど、社会が子供を育むという言い方よりも、社会がすべての子供達のしっかりとした受け皿として機能しなくてはいけないのだろう。

人間関係を煩わしく思い、リスクに感じるのは、裏返してみれば、自分が他の人のために何もしていないということなのではないか。そこに好循環がある人は、個としての力以上に成果を出すことが出来るのかもしれない。今までの人生でそんな経験ほとんどないから、その仕組みを構築できないのかな。せめて、簡単なことでも他人のために何かをするという経験が必要なのだろう。

四月は寒いのではないか。そして、GWも肌寒いくらいかも。と何の根拠もない予想をする。来年の今頃なにしているだろうとふと思う。考えてみれば、来年とか去年とか、そんなふうに考えるのは暦があるせいだ。寒くなったり暑くなったり、花が咲いたり木々が葉を落としたり、そういうことはあっても、本来私たちは、その移ろいの中でただ怯えながら立ち尽くしているに過ぎない。生きるとは、暦の上をすごろくのように進んでいくものではなく、通り過ぎていく風を感じるようなものではないか。

現代は分かり難い時代である。でもその分かり難いということは大切なことなのではないか。分かり易くしようとする人がいる。そういう人の言葉を疑わなくてはいけない。

良質の責任は、人を活かす。良質の責任とは、失敗を許容するものである。今の社会では、責任とは失敗を許さないものになっているような気がする。だから安易に責任を持つようなことは言えないし、責任に怯えるしかなくなってしまう。

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2021.03.25

御座白浜の石

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商売で儲かっているという実感を得るためには、経常利益で20%ぐらいないとだめなのではないか。でも、市場を独占する優良企業でない限り経常利益20%は難しい。だからみんな、キャッシュフロー的にはぎりぎりで「儲かりませんな」ということになるのではないか。これは、家計にも言えることかもしれない。収支の差が20%ぐらいでないと経済的な豊かさは実感できない。だからいつも生活は苦しいということになる。けれど、企業にしても家計にしても、回っていることが重要である。要するにその過程で、「生き延びる」という必要十分な富は得ているということだ。

スキーだと思うから今頃の雪質にがっかりする。春スキーというものだと思えば、少し薄着でしゃばしゃばした雪を滑るのは楽しい。

高校二年の夏、友人たちと賢島の御座白浜に海水浴に行った。その時に十七歳の僕は何でもない平べったい石を拾って日付を書いた。当時、生まれて初めての短い恋愛の後に生まれて初めての失恋をし、生まれて初めて何でもない石に日付を記したくなるくらいセンチメンタルな気分だったのである。当時の僕は、当然自分の四十年後なんて想像すらしていなかったし、その石が四十年後も手元にあるとも思っていなかった。年をとると何でも記念になり、薄れてゆく記憶をたぐり寄せる起点になるから残しておくものである。今から思えば、学生時代に日記を書いていればよかったとひどく後悔するし、宝箱がいっぱいになるくらい大切な日々の記念品を残しておけばよかったと思う。八十歳になれば、五十代のことを今僕が青春時代を振り返るように懐かしむのだろうか。それなら今からでも遅くはないということになるけど、やっぱり十七歳は特別である。二十歳よりも、二十二歳よりも、十七歳は、人生の中で特別な一年である。

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2021.03.23

Truth or Dare

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人生とは結局のところ、何かを探す旅なのではないか。それは、生物学的にも哲学的にも一致することである。ただ多くの場合、その「何か」すらわかたないまま、旅は彷徨の中で終わりを迎える。まずは、探す「何か」を探さないといけないということかな。

地域の公園で、お年寄りと子供達の領域争いが生じているという記事を見てすごい時代だなあと思う。お年寄りと言っても、そろそろ戦後生まれのお年寄り、戦争を知らないお年寄りが大きな塊となって増えつつある。それを考えれば、行政はもっとダイナミックに世代構成やコミュニティに変化にマッチするようなまちづくりをしなくてはいけないのかもしれない。お年寄りと言っても彼らは、若い頃に学生運動を経験し、海や山で遊び、フッションに興味を持って自由恋愛を楽しんだ人たちである。いわゆる「お年寄り」とは全く考えていることが違うのだ。彼らが幸せだなあと思って日常を送れるように、彼らが蓄積した富によって社会を変えていくことは当然であろう。

みんなが心地よく共生するために、すぐにできる小さなことってたくさんあるのかもしれない。みんながそんなふうに日常を過ごせば、結果として相当心地よい社会になるのではないか。権利とか義務とか、そういうことではなくて、誰もがやさしい気持ちになれるような仕組みを作れないものだろうか。そのためには、「すべてのものを測る尺度としてのお金」という知らないうちに定着してしまった暗黙のルールを変えないといけないのかな。いい意味でお金の価値を低める工夫が必要な気がする。

「もう無駄にでもつこたらええやん」と僕が言うと、母の言葉「老後のためにお金をとっとかなあかん」って、十分すでに老後でしょ、あなた。裏返せば、息子は信用ならないということかな、反省しよう。

確か、去年はシーズン通じての雪は少なかったけれど、三月、四月と寒くて案外溶けずにいいコンディションが続いた。今年は雪は多かったけれど、三月に入って雨が雪を溶かしている。それでもGWまでは滑られるだろう。去年は四月の初めでスキー場も営業を断念した。もうこんなにスキーに行くのも今シーズン限りだろうから、寒い四月だったらいいなあ。GWとか行楽地への道が混みそう。どうせなら、ちょっと緩めの自粛モードが続けばいいかも。あ-、スキー場の天気予報を見ない冬を過ごすなんて寂しすぎる。

「切花の蕾は咲かない」ような気がする。これは、少ない経験をもとに僕が思っていることであるけれど、実際はどうなのだろう。ネットで調べれば答えは見つかるはずで、でもそれじゃいけない気がする。もっと経験を増やせばいいのだろう。あるいは、他人に聞くこともいい。疑問と答えが近い世界は、結局自分たちを苦しめるのではないか。

みんなコロナ禍が終息すればhappyになれると思い込んでいる。その意識は足元の経済を支えているのだろう。しかし、そう簡単なものでもない気がする。コロナ以前は良かったのかと言えば、下降していく経済をアベノミクスが辛うじて数字上の下支えをしていたに過ぎないのではないか。

生保の統計によると、60歳までに亡くなる人は10%ぐらいであるとのこと。まあ、保険の商品もそれを前提に設定されているのだろうけれど、これで見ると60歳までに死ぬのは世間的にちょっとかっこ悪い気がしてくる。60歳を過ぎると本格的な老化が始まるわけで、病気になる確率も上昇し、希な人を除けば、多くの人は医療のお世話になりながら長寿の域に向かうわけである。今では80代で亡くなった人の訃報にも、もう少し生きられたのになどと思うほど意識が変化している。生物としての人間を考えると、やはり人生五十年、多く見ても六十年というところは、今も昔もそうは変わらないのではないか。そう考えると国が経済と社会保障を維持するために「人生百年時代」なんているキャンペーンを張ることの罪を感じてしまう。

自然にやさしさや得意なものなど他人のいいところを引き出せる人、そういう人が立派なのではないか。とまた、韓国ドラマから気づきを得た。

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2021.03.21

瞼の裏にこびりついた幻のひかりと共に老いていく

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民主主義において、「王様の耳はロバの耳」は必要かつ重要であるということかな。

お金を使わないと豊かさを感じられないという意識を変えればいいような気がする。将来のために貯蓄するというわけでもなく、できるだけ安いものを買うということでもなく、支出も収入も同様に縮小することで豊かさを得る方法を考えればいいのではないか。これは個人もそうであるし、社会もそうである。それでは経済が破綻し雇用が維持できないという話になるが、そうでもないのではないか。アベノミクスや日銀が考えたデフレからの脱却、インフレターゲットの真逆の考え方である。

京都から志賀高原行きの夜行バスに乗るために久しぶりに電車に乗った。たぶん一年ぶりくらいだろうか。この当たり前の行動がまるで宙に浮いている気分がして落ち着かない。目に映る駅の景色はまるで異次元を覗いているみたいだ。会社帰りの人を見ていると、通勤も立派な労働の一部であるような気がする。社会が遠い、何かの記事で読んだその言葉が、誰のことでもなく、自分のことであるのに気がつく。それにしても、みんな長時間よくマスクをしていられるなあと思う。僕がマスクをするのは、来訪者とに接客時だけだから、いまさらながら慣れていないのである。だいぶ前に買った新しいイヤホンをやっと使った。

早く死にたい。その前に、早く死んでもいい状態にしたいがあるのかな。死んでもいい状態になれば、心置きなく短い余生を送れるだろう。その期間はたとえ一年か二年であっても至福の時ではないか。

スキー場は、シーズン終盤に差し掛かり今まで我慢していた人たちが来ているせいか、それなりに混んでいた。若い人が比較的多いから春休みのせいもあるかもしれない。それにしても、今シーズンは政府の方針転換の繰り返しの中、諦めずにスキー場もその周辺の宿も頑張ったなあと思う。夜行バスや路線バス、JRの特急、近鉄の特急と乗ったけれど、案外、感染リスクを感じない。まあ、空いているからというのもあるけれど。

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2021.03.18

since 1986

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そうか、食事を共にするとは、食べ物を分け合うということかもしれない。だから大切であるのだろう。本当に韓国ドラマには気づきが多い。

選抜に出場する選手に意気込みを尋ねると「高校生らしく」と答える。なんだか少し違和感をもった。彼はすでに社会に従うことを当然と思っているのではないか。そして、自分の立場を必要以上に理解している。高校野球の入場行進が好き好きにだらだらと行われるくらい意識が変わらなければ、この国の封建社会の名残りは消えないだろう。と思っていたら、たまたま高校野球の監督のドキュメンタリーを観て、ハラスメントと言われかねない高校生との向き合い方に、これはこれで一つの教育の方法なのかなと思ったり。少なくてもその先生は僕よりずっとずっと教育ということについて深く考えていらっしゃるだろう。

ここ一ヶ月ぐらいのややこしい状況が少し緩和されてきた。そんなことを繰り返しながら月日は流れていくものであるのだけれど、それは周りの人たちの作用によって動いていることでもある。あと二年はこのままで、そのあと二年で縮小すれば、目標とした年令に達する。そこからはなるようになるという感じでいいかな。何とかなりそうな気がする。そしたら、平穏な年金生活者になれるかな。年金生活者になったらお金のかからない何か新しいことを始めよう。朝から晩までそのことを考えて過ごせるような。

じわじわとインフレ懸念が広がっている。これは、アベノミクスや日銀が想定した良性のインフレではない。誰もコントロールできない、そして社会の格差を広げる悪性のインフレである。それにしても、金融緩和によって貨幣の価値は感覚とすれば三割ぐらい低まっているのではないか。その分、心の価値が高まっていればいいけれどそうでもなく、他の何かに代わっている気がする。

午後の紅茶がリニューアルしたという記事を見て久しぶりに買ってみた。「since 1986 」当時同級生の井上が「これはうまい」と言ってたのが懐かしい。まさかそのあと自分がそれを売る立場になるとは思わなかった。もうあれから35年も経つのか。あの頃に比べると、午後ティも甘くなくなったなあ。あのまま勤めていたら何してたんだろう。どっかの支社長とかになっているのか、窓際の席でモジモジしているのか。多分後者だな。

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2021.03.14

土曜の夜と日曜の朝

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木曽でよく泊まる旅館に二軒に電話したら両方満室だった。来週から三週続けてスキーの予約したから、今週は家でテレビ見てようかな。三週のうち一週ぐらいは、THE DAY があるでしょう。

韓国ドラマってシェイクスピア的なのかもしれない。普遍的なテーマを扱うから、ワンパターンでもおもしろい。

週末に気分転換しないといけない日常なら、日常の方を見直せばいいのだけれど、そうもいかないと思ってしまうとことがそもそもいけないのだろう。近頃、身体全体が「老化」していることをひしひしと感じる。きっとこの老化は、身体能力だけにとどまらず、様々な病気に対する抵抗力の衰えにもつながるわけで、だからこそ人は、年をとると病気になるのだろう。あとは、不測の事態にも迷惑をかけない仕組みを作らないといけないな。

なんか電卓に違和感を覚えるなあと思っていたら、ボタンの配列が違うのだ。これをどちらか使いやすく感じる方に統一すればいいのではないか。筆記具もそうだし、ハサミやサシなんかもそうだけれど、ついなんでも一緒だからと安いものを選んでしまうけれど、実はこういうものをちゃんと選べば、日常は楽しくなるのではないか。千円以下で手に入るものに千円以上出す勇気かな。

土曜の夜はぐったりしてまるで身体が椅子のカーブに引っ付くみたいになっていたけど、日曜の朝は少し元気になった。まだ少し冷たい風が春の光を揺らしている。なんだかもう、何も未練がないなあと思った、これは新しい意識だ。やっぱり、土曜は全部お休みにしようかな。

この世界にはきっと「そうでなくてはいけないもの」なんて何一つない。それを作り出すのは社会であって、それは教育で支えられている。教育は、社会を支配する人が都合のいいように行われる。少なくても日本ではそうである。教育によって育まれた人格は、当然社会にフィットする。でも、それってある領域の中で繰り返される箱庭の茶番劇ではないか。近頃世に出る才能ある若者は、破壊者という印象を受けない。それでいいのかな。若者の役割は、古びた社会を破壊することであろう。まあそれは限られた人だけに備わった力ではあるけれど。

休みの日は、椅子に腰掛けて朝から晩まで韓国ドラマを観ていているのが一番楽しい気がする。もっぱら受け入れる悦びに浸るというわけである。ドラマのような人間関係は、ドラマを観るだけで十分な気がする。

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2021.03.13

param param

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我慢というのは、社会的な意識だろうか。もしみんなが我慢しなかったら、社会は崩壊するだろうけれど、生物としての人間はどうなるだろう。社会の進歩と人間の繁栄は必ずしもぴったり重なるものではないのかもしれない。そう考えれば、我慢もほどほどでいいのかも。

嫁さんのことを思うと泣けてくるのは、やっぱりまだまだ社会に封建的な意識が残っているからではないか。無駄に苦労したり、我慢したりしなくていいようになれば、もっと誰もが自分らしく楽に生きられるだろう。そのために社会は変化し続けているはずである。そう考えれば、夫婦別姓とか、女性、或いは女系天皇とか、そんなことは、議論する以前のことである気がする。ジェンダーオールフリーでいい。誰かが自由になることは、きっと自分も自由にするだろう。保守とは、何より自分が自由になることを恐れる意識ではないか。自分を既成の価値から自由にする勇気を持たなくてはいけない。この世界に「そうじゃないといけないこと」など何一つない。

こういう想像をしてみればいいのではないか。もし女性の方が身体が大きくて、力も強く、男性には子供を宿すという役割があるとすれば、社会の中でどんな恐怖があるのか、どんな不利な立場になってしまうのかを。その上、長い歴史の中で、その立場は固定化され、そのように教育され、社会システムそれ自体が当然のものとして将来に立ちはだかる。

お金を出せばなんでも手に入る時代からお金を出しても欲しいものが手に入らない時代へと今大きく転換しつつあるのかもしれない。季節の変わり目には大雨が降るように、このコロナ禍は、そういう変化を促すことになるのではないか。

なぜ韓国語で風のことをパランというのだろう。なぜ英語でwindというのだろう。なぜカゼというんだろう。風はパランな気がするなあ。

スキーに行くのがめんどくさくなった。その大きな要因は、年末年始に続けてスピード違反で捕まったことにあるような気がする。法は、人のやる気をそぐ効力を備えているのかもしれない。それはある種の麻薬のようでもあるし、轡や足枷のようでもある。もしかしたら、それこそ、法が布かれる目的なのかもしれない。

沢田聖子と嫁さんの誕生日が一緒であることをはじめて知った。これも運命か。彼女には運命を感じさせる多くのことがある。そういう存在であるから結婚したということかな。運命なのだから、選択肢は一つだけで他にはない。

 

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2021.03.11

なぜ人は忘れてしまうのだろう、そして思いだそうとするのだろう。

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考えてみれば、このコロナ禍も東日本大震災や阪神淡路大震災に比べれば、その実質的被害、死者、社会に与えた影響、人々の精神的苦痛、どれをとっても軽微なものに思える。テレビ画面を通してさえ感じた圧倒的な絶望感と長く引きずり広がっていく無力感は比較しようがない。しかし、その大災害でさえ、第二次世界大戦に比べれば、どうであろうか。十年、なぜかずっと前のことに思えるのは当事者意識の欠如かな。たった十年しか経っていないとも言える。被害に遭った人たちにはまだまだ感覚として震災が残っているだろう。それにしても、十年前の自分とはどれほど遠ざかっただろうか。今年、五十六になるって信じられないなあ。

桜(ソメイヨシノ)は、人間のために花を咲かせる唯一の植物と言えるだろうか。日本中の或いは世界中のソメイヨシノは、一つの木である。そう言われれば、同様の環境では、枝ぶりも花を咲かせる時期もほぼ同様で、それがまた、私たちからすれば美しいということになるわけであるが、見方によってはちょっと異様とも言える。桜を題材にしたポップミュージックがここ十年ほどの間にどれくらい作られただろうか。その多くは、思い入れたっぷりに自分たちのありようを桜に重ねるわけであるが、その本質に言及することはない。私たちは、一本の木なのだろうか、或いは皆クローンなのだろうか。それならそれでいいけれど、その範囲が、国家や民族という狭いものであってはならないだろう。

ロマンチストとは、表現を変えればスケベーということかもしれない。要するに、本来シンプルな感情にヒラフラとしたフリルをつけて、その感触に酔いしれるタイプの人である。そんな意識が死ぬまで続くのだろうか。そう思うと自分のことながら気が重くなる。

オリンピックって、なんのために、誰のためにやるものなのだろう。それを考えれば、強行するべきか、やめるべきかが誰にも理解できる形で示せるのではないか。せっかくやるなら、整った形でやるべきであるし、参加する選手も、応援する人々も清々しい気持ちになれるようにしてほしいなあ。そうでないなら、やめることもまた清々しいのかもしれない。ここまで来たら、お金のことはもう仕方がない。どっちにしてもたくさんの浪費があることには変わりはないでしょう。ある一部の人に損をさせないために無理無理に強行するとかはやめてほしいな。

僕は人前に出られるほどきれいではないなあと思う。ただ結果そのことが、無謀にも人前に出ることを自制する機能を果たしているとすればそれでいいような気がする。これでいいでしょう、私の人生。という感じである。

この国では、非常事態に陥ると、すぐに旧来の全体主義による社会の仕組みが復元され、個人主義は蔑ろにされてしまう。個人主義は、他の人々を救うことはできないのだろうか。個は個を救えないのか。

なんだかもう、引き返すこともできないほど春だ。

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2021.03.08

Honey land

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北マケドニアってどこにあるんだろう。年老いた母と二人でその国の荒涼とした場所に暮らす女性は、64年の生まれであると答える。養蜂によって手にする僅かなお金で隣人もない古びた家に暮らしている。彼女と僕は、過ごしてきた時間がほぼ重なる。彼女の暮らしは幸せそうには見えない。けれど不幸せにも見えない。ただ淡々と日々を受け入れ続けている。彼女に意思がないわけではない。それどころかはっきりとした意識を持って昼と夜の波を越え続けている。ある日、キャンピングカーをトラックで引いたトルコ人の家族がたくさんの牛を連れて近くに越してきた。短い交流のあと、彼らもまた、少し大層な道具で養蜂を始めるが、そのことで彼女の蜂たちはほとんど死んでしまう。彼らも養蜂を諦め、またどこかへ去っていく。老いた母もやがて墓標の下へと去り、雪が降り、彼女は誰もいないその場所で養蜂を続ける。日々は、この世界が続く限り、永遠に繰り返される。それは絶対である。その絶対の中で、私たちはどのように生きるべきなのか。私たちに生きる理由などない、生まれてきたがためにそれは必要になるものに過ぎない。人間が生きる理由ではなく、個々に生きている私が生きる理由である。彼女と話がしてみたくなった。彼女にそんな馬鹿げた質問をするわけにはいかないけれど。

そのうちガソリン車も喫煙者並みに阻害されるようになるのかな。とふと思う。

最強の官房長官が最強の首相になれないのは、菅さんが安倍さんほど嘘をつききれない誠実さを持っているからだろうか。それとも、財界や様々な組織の後ろ盾を持っていないせいか。

こんな硬直化し、融通が利かなくなった社会からは、早く退出したもの勝ちなのではないかとふと思う。まあ、それは僕の歳になったから言えることで、若者たちはそこに自分をフィットさせるしかないわけであるが。

見ることと聴くことはどちらが大切だろう。どちらも知ることではあるが、どうもその性質が異なるような気がする。もちろん相互に補完し合いながら、私たちに理解をもたらすのであるが、何となく聴くことがより大きな理解を得ることのような気がする。例えば、音を消したテレビとラジオが同じ内容を伝えようとするならどちらがいいだろう。草原に立つ時、その景色を眺めることと風の音や生き物たちの音を耳にするのとではどうだろう。一つ言えるのは、音はより感情に作用するものではないか。そこに知ることの質の違いがあるのかもしれない。

この世界が永遠であるとすれば、それは自然状態における生物の営みにおいてであって、人間が作り出したこの異様な箱庭はそれには当たらない。私たちが永遠を考える時、そのことは忘れてはいけないだろう。これからは、不要なものは限りなく捨て去る必要があるのではないか。私たちは、蜂たちと共に、蜂たちを習って生きられるのかということである。

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2021.03.05

流れていく

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人間には誰でも、日本で一番とまでは言わないまでも、1/1000ぐらいの才能が一つぐらいは備わっているのではないかと思う。例えばそれは、足が速いとか、球技が得意であるとか、記憶力がいいとか、基礎的な思考に優れているとか、あるいはとても人に優しくできるとか、もちろん美形であるとか、様々だけれど、1/1000というのは、それを活かし社会にフィットさせれば、十分に生きていける才能と言えるような気がする。問題は、それを自覚できるか、また周囲がそれを見いだせるかと言うことだ。(1/1000は言いすぎかな。1/100ぐらいかな)

社会はよほどの天変地異で世界全体が生きて行くにも困るほどの食糧難にならない限りは、今までそのように進んで来たとおりにこれからも個に向かっていくだろう。単位が個に向かうということは、コミュニティはより緩く大きくなるということであり、今、妙な愛国主義が広がっているのも、実は単位が個に向かっている影響であると考えられる。保守的な考え方の人が、地域や家族というコミュニティの単位を守ろうとするのは、過去の幻想と同時に支配の階層を維持したいがためであり、個と国家が直接向き合うことを回避したいがためとは言えないだろうか。個が求める国家は、過去の愛国心の元になったコミュニティの集合体とは別物で、自らを裏付ける存在としての国家である。よってそれは、鋭敏でありながら希薄な意識なのではないか。

スキー以外に何しよう。写真って、どんどんと撮る理由が薄らいでいる気がする。それは、僕自身の変化よりも世の中の変化の影響が強いかな。あるいは自分が撮らなくても、誰かがそれを撮ってくれるという気がしてしまう。まあ、山歩きをしていると楽しい。美術館とか、博物館に行っても楽しい。家でラジオを聴きながら好きにタバコを吸っている時間も楽しいかな。農業、まあそのうちね。どうもお休みの時は、作用する行為よりも、受け入れる行為が楽なのかな。何もしなくても時は流れ、その日はやってくる。いや、たどり着くのかな。流されるというより、流れていくという感じの意識がいいかな。要するに意識的に流れるわけである。最少エネルギーでその日にたどり着く。そう言えば、高校の頃、そういうのが、自分のテーマだったのを思い出す。いつのまにか、無駄なエネルギーをたくさん使う生き方になってしまったかも。それはきっと、流れていくのではなく、流されてしまったからなのだろう。

大学を卒業する時、正確には同級生が卒業する時、友人たちと四人でオーストラリアとニュージーランドを一ヶ月近く旅行した。当時学生の卒業旅行で海外に行くのが流行りはじめていた頃だったかもしれない。その時僕はカメラを持って行こうなんてまったく頭に浮かばなかったし、そのうちの一人が誰かに借りたという一眼レフ(今から思えばそれはたぶんキャノンAEー1だったような気がする)を持ってきたのを見ても、ふうんって感じだった。でも、そのカメラが残してくれたまるでスティーブンショアのようなカラー写真は、今となっては宝物のように思える。そして、その旅に中途半端な立場だった僕を誘ってくれた友にも感謝である。同じことは、高校時代の写真部のクラスメイトが撮ってくれた弓道部のモノクローム写真にも言える。当時は、クラブの風景を撮らせて欲しいと頼まれて渋々OKしたのだけれど、本当に写真の持つ「記憶力」って、すごいなあ。それを眺める僕の記憶はどんどんと曖昧になるけれど、そこから遠ざかれば遠ざかるほど、「写真の記憶」は鮮明に、美しくなる。人間の記憶は、覚えることより、忘れることで、生きることにより寄与している。多くのこと、いやほとんどのことを忘れることで、大切なことを際立たせる。

フランス人は何を考えて生きているのだろう。フランス人に未来なんて概念はあるだろうか。

父は、自分で決められないのかと思うくらい他人の意見を聞く人である。母は、ほとんど他人に意見を求めず、わからないことでさえ自分の中で決める人だ。

日本の社会では、今でも他人に様々な形で「強いる」ことが当然のように常態化している。「大義」という言葉を使うのは大げさであるけれど、組織の目的のためには誰もそれを疑わない。これはまさに小さな全体主義である。誰もが自分の意思で行動すること、それはもしかしたら、非経済的であるのかもしれないし、仕組みを乱すことになるのかもしれない。それでもそうあるべきなのではないか。そこで生じる余裕こそ、本当の豊かさとは言えないだろうか。私たちは誰も「個」としての存在なのであり、そこを起点として構成される社会こそが、本来求められる姿であると思う。

誰かが苦しんでいるのを見ていられないのが愛で、自分の思いが誰かを苦しめるのが偽の愛だろうか。「愛する」という言葉を、私たちは書き言葉としては使うけれど、会話の中ではほとんど使わない。それは、日本人の意識の中に「愛」という言葉とぴったりと重なるものがないからではないか。私たちは、「愛」をとても都合よく使う。それもまた、愛が理解できていないせいかもしれない。韓国語にも愛にあたる言葉がある。サラン、日本語と同じようにサランという名詞に「する」にあたるハダがついて、サランハダで「愛する」ということになる。韓国の人の方が日本人に比べれば、愛するということの本質を知っているような気がする。

十代のころ、喧嘩をするたび、最初に殴られるとえも言われぬ悦びが体の内部から湧き上がってくるのを感じて不思議に思った。当時の僕は、先に殴られたことで喧嘩をしてもいいということになった悦びなのだろうと思っていた。でもそれは違うのかもしれない。もしかしたら、人間は暴力に快楽を感じるようにできているのではないか。暴力が、ひとりの人間にとって快楽を伴うものであるとすれば、それは生きるために備わった本質的なものであるということになる。私たちはそれを否定できるのだろうか。

政治家というもの、その中でも急進的な考えを持つ人は、実はいわゆる「声の大きい人」に過ぎないのかもしれな。そのごく一部の人によって世の中が変えられていくという仕組みは民主主義とは言えないし、危ういものなのではないか。よって、政治家に権力を持たせてはいけない。常にそれを監視するもう一つの仕組みが必要である。時にはそれを軍部が担うわけであるが、それもまた危うい。一番いけないのは、政治家と軍が結託して国家を支配することであるけれど。

過去には、シャンソンやフレンチポップが世界中で聴かれ、映画といえばフランス映画という時代があったのだから、KPOPが大人気になり、韓国映画がアカデミー賞を取っても何の不思議もない。ということで、Apple Musicで現代のフレンチポップを聴いてみる。

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«さてどうしましょう。