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「境界のエクリチュール」 in Book of days

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2017.10.22

goldenrod




こんなに雨の日が続くのは珍しいなあ。刈り残された田に穂が重そうに垂れている。灰色の空の下、休耕田に広がるアワダチソウがきれいだ。もしみんなが米を作らなくなったら、この季節は、一面にアワダチソウが咲く平原になるのだろうか。私たちが目にする風景のほとんどは、私たちのコントロール下のものとして表れる。コントロール下にあるものだけを愛で、残されたわずかなありのままのものを忌み嫌い、あるいは排除する。

夢の中で起きた困難をふぅんと受け流す。夢だからかなのか、そういう感じになったのか。

アワダチソウにそんな感情を重ねるのは、既成概念のせいなのか、アワダチソウが内在しているものなのか。

トンネルを掘る人は、やがて目にするはずの「向こう側」にある光をイメージしているのか。それともつるぎを跳ね返す目の前の岩盤に集中しているのか。可能性とはどちらのことを言うのだろう。

テレビで見た映画のセリフ
「自殺できるほど有名じゃない」
近頃思うこと
有名になれるほどきれいじゃない。

アワダチソウにも花言葉はつけられている。生命力とか元気であるらしい。元気なことは、他者としての存在する場合、厄介ということなのかな。でも、もしかしたら、河原に群生するその様を見て、自分でも気づかぬうちに生きようと思う人は少なくないかもしれない。

選挙と台風は、人の心をざわつかせる二要素なのでは。なぜか焼肉を食べたくなったりする。

周辺のあらゆる河川に氾濫水位に近づいているという。かといって、避難するとか、なんらかの行動をとるという気にはならない。きっと洪水が毎年起こることなら、なんらかの対処を考えるだろう。でも生まれてこの方、そんなことはないわけで、何かそういうことも含めて、災害対策は考えないといけないのかもしれない。

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2017.10.18

I was taken by a photograph of you




決して言葉にすることはないけれど、繰り返し心の中でつぶやく。キリスト教では、神の名前を口にすることを畏れるために「主(the Lord)」と呼ぶらしい。きっと心の中でつぶやくその言葉が、「主」なのだろう。主は、まさに私を導くもの、私を生かしたもうもの、そして、いずれ訪れる死を示唆するもの。心の中の口癖、僕はきっと、最後の瞬間にも、薄れる意識の下でその名をつぶやくだろう、心の中で。

稲刈りが終わると急に秋は深まり、北の方からは初雪の便りが届き始める。一ヶ月少しすればスキー場はオープンし、街はクリスマスの飾り付けでいっぱいになる。先をゆく季節に追いつこうと、メンテナンスに出していたスキーを受け取りに行き、アマゾンでワックスをオーダーする。今年は、エクストレイルくんのスタッドレスを新調しよう。この冬はまだ、スキーに行ける環境を確保できそうだ。

とりあえず、12月2日志賀高原の宿に予約入れてるけど、雪積もるかな。カメムシが大量発生した年は雪が多いとネットでは話題になっているようだ。日本スキー場開発を買ってみた。

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2017.10.17

rain falling as if in sympathy with people in sorrow




この国のかたちは、だんだんと歪んでいくのか、それとも整えられていくのか。僕にはその答えなどわからない。答えを導き出すほどの知識があるわけでもないし、現状を判断するほどの情報もない。ただ子供の頃から学校で学んだことからすれば、やっぱりそれは歪んでいくように思えて、その歪みは何より、一億の欲望によってであるように思えて、あるいは、一億の苦しみによるものに思えて、理想など明日を無事迎えるためには何の力を持つものでもなく、ただただ教科書の活字でしかなかったということなのだろうか。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義。主権者である私たちは、日本国憲法を貫いている精神にそれぞれが責任を持たなければならない。私たちは私たち自身を統治し、支配するのである。

奈良県では、自民党の候補は、ほとんどの区(地方自治体の下の大字、町などの単位)でミニ集会をし、平日でもそれぞれの場所に数十人の人が集まる。そこには行政が関与しているわけではないけれど、それに準じた組織が動いているという感じだろうか。住民の多くは自民党支持がごく当然のことであり、人付き合いとそれは重なり合うように浸透している。自由民主党、その自由とは何からの自由なのかと考えると封建制下の社会からの自由なのだろうか。自由にも色々ある。縦方向の階級制度からの自由、横方向の社会からの自由、前後の方向を持つルーツからの自由、それに自らに内在する観念からの自由というところが頭に浮かぶ。自由民主党も、結党当時には、何者かからの自由を標榜していたのだろう。現在における支持も、その延長線上にあるものかもしれない。しかし、現在の自由民主党は、その延長線上を辿っている党と言えるのだろうか。自由民主党とそれを支持する人々によって、新たな社会構造が構築され、多くの人々は、気づかないうちにそこに縛られ、搾取されているとは言えないか。

この選挙期間中は、雨模様が続いている。投票日までそんな予報のようである。戦後日本の涙雨、そう言ったら大げさだろうか。もう一度勝たせるなら、もう後戻りできないところまで日本のかたちが変わるだろう。誰かが戻ろうと言いだしてもその道はぬかるんで、遠く過ぎ去った自由と民主の国は霧の中に消えてしまっているだろう。与えられた食料と銃を持って、暗い闇を進軍するしか生きる道はなくなっているだろう。私たちのためではなく、尊い存在の誰かのために。

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2017.10.15

秋の日、雨の日





椅子に腰掛け、通帳の繰越手続きが終わるのを待っていた。三つ並んだ窓口の一つに杖をついた初老の男の人が近づき、その人の背からは吊ズボンとトレーナーの間に軟らかそうな肌が白いシャツと一緒に見えた、小さな金色の壺の形の缶をカウンターに置いた。窓口の人、経験豊富に見える女性が、早速百均で売っているような黄緑色の四角いカゴを用意し、蓋を取って中身をそれにあけた。なんとも軽い音がして、いやそれは聞こえたような気がするだけで、僕まで届くことはなかったと思うけれど、大した会話が交わされるわけでもなく、手続きは進んだ。お金って何だろう。ふとそんなことが頭に浮かんだ。

私たちはどうしようもなく、お金に支配されて「生活」をしている。自給自足を試みる人も、食べることは何とかなっても、社会生活のためにはお金が必要なことがわかって諦めてしまう。お金を使わない生活のためには、社会との関係を絶つことさえ求められるのだ。昔、それは戦前ということになるだろうか、もう少し前かもしれない。その頃の農村では、どれくらい貨幣が流通していただろう。お金は社会生活のためにどれくらい必要だっただろう。貨幣は、物々交換を介在する便利なもので、それぞれのものの価値を測る尺度としてそれは用いられる。労働さえ、貨幣によってその価値を定められ、ひとつのものとして交換される対象となる。結果、直接の物々交換では得ることのできないものも、貨幣の介在によって、二次的に得ることができる。そうして、私たち自身も、物質的に経済活動の一部となるのである。

振り込め詐欺防止の啓発のためのポケットティッシュが、店内で配られていた。腰を曲げたおばあさんにそれは渡され、次には自分にも渡されるのかなと見ていると、同じように渡された。全員に渡すものであるのか、僕もその対象であったのか、それはおいといて、まあ、自分がそんな歳になったわけであることは日常的に自覚できる。

目にした様子を文字に置き換えることは、やってみるとなかなか難しい。絵を描くことと同じように、それは、十分な練習が必要である。どうも完全に事実を並べようとすると文章に不具合ができるような気がする。全体を整えるには、小さな設定の変更やディテイルの修正が必要なのではないかと思える。

僕は、どれほど多くのものに依存して生をつないでいるのだろう。

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2017.10.12

範囲のある国の選挙




何とも言えない状況。結果としては、改憲勢力がより明確に、そして大きくなるということなのかな。改憲に対する世論調査の結果とは、大きな違いが見られる勢力図となる。だいたい、保守とリベラルの支持層は、こんなにも差があるのだろうか。しばらく続いた政界再編は、社会党を崩壊させ、民主党を破壊し、ついには、ほぼ保守一色の状況を作り出した。もう何でもありを許容する答えである。ここに至って、国民の関心は、政治腐敗でも改憲でも原発でもなく、安全保障さえ二の次で、ただただ、経済政策、もっと言うなら、自分が得をすることに集中している気がする。具体的には、アベノミクスによって膨らんだ資産を再び減らしたくはないと言うことではないか。ほんとにそれでいいのかな。まあ、それなりに豊かで平和であると言うことかな。みんなこのままでいいと言うことなら保守が勝って当たり前、ただ、現在の日本の保守派は、現在の社会体制維持以上に元に戻ろうという勢力であるから、大衆がそれに気づいたときにはどうなるのだろう。大衆にとっての保守ではないということ。自民党も希望の党も、週末にイオンモールに買い物に行って、無印やユニクロで買い物をすることを楽しみにしている人の代表ではないということ。イオンモールは、人々の暮らしに彩りを与える役割をしているけれど、同時に不満のガス抜きにもなっているのかもしれない。まさに現代の日本社会の境界を内包した場所なのかな。

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2017.10.11

カナタとユクエ




今から思えば、稲アレルギーだったのかな。子供の頃から、農家でありながら、稲刈り、脱穀が終わった後は、熱を出して寝込んでいた。いまはまだ家で脱穀をしなくなったからいいのだけれど、稲刈りはコンタクトが痛くなるのとの闘いである。思うに、生きるために必要なものは、何より健康である。不必要な勉強などするべきではない。良くも悪くも、戦後の日本においては、生きることと学ぶことの関連性が崩れて、学ぶことが、生きることに直結しないという事態が多く見られる。自由の初期段階に起こる状況と理解するべきだろうか。近頃の若い世代では、少しそれが改善されてきているように思える。

ワイキキの鳩は多くが白い。きっと、白い鳩が生き残る確率が高く、自然に白いものが増えたということなのだろう。要するに、光の保護色ということなのでは。青い鳥は、空の保護色。カラスは闇の、カササギの白と黒は、光と闇の共存ということかな。

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2017.10.10

大きなメタファー




従軍慰安婦像のことになると、日本人は、韓国の人からの直接的な歴史観に対する非難であると苛立ちを隠せない。けれど、韓国の人からすれば、それは、もっと広い範囲に及ぶ日韓の重なり合い今も続く関係のメタファーなのではないかと思ったりする。彼らは今更言葉にするのも嫌な思いをその像に託しているのではないか。もし、日本の政治家や保守の論客が、それをわかっていながら解決済みと言うなら、この問題は百年経っても終わらないだろう。なぜなら、その時点でさえも、心の中のわだかまりは少しもほぐれていないのだから。

宗教もまたこの生き苦しい世界を辛うじて受け入れるための方法としてのメタファーなのかもしれない。ただ日本における神道は、その範疇ではなく、もっと直接的な意味を持つ。権力者にとっては、その統治の正当性を表すものであるし、氏子である人々にとっては、自らの権利と居場所を確保するものと考えられる。

電車の車窓から風景を眺めていると写真撮ればよかったと思うことがある。あーあと後悔するわけであるけれど、多くの場合、同じような風景がもう一度現れるのである。そこでもう一度後悔して、やっとカメラを構えたりする。もうそれでは遅く、トンネルに入ったりする。チャンスは二度訪れる。これは結構、写真に限らず、仕事や恋愛など何事にも言えることなのではないか。一度のチャンスは、いわゆる反射神経のいい人しか手にすることはできない。けれど二度目のチャンスは、意思がある人は手にできる。何度も繰り返し訪れるなら、誰でも手にできるけれど、それはまあそれなりのものである。

政権交代可能な二大政党制の実現のために。それは、政党や政治家の目的として正しいのだろうか。二大政党制といえば、アメリカやイギリスが思い浮かぶけれど、その両方とも、考え方や支持層に基本的な違いを持つ二政党によって構成されたものである。日本には、階級闘争もないし、地域間の政治的違いもない。もちろん、思想によって真っ二つに割れるようなこともないわけで、根本的に二つの政党が、一定の力を有して存在する理由がない気がする。何だか、二大政党制も、他のいろいろなことと同じに欧米への憧れがその元になっているだけのことなのではないか。もう一度中選挙区制に戻そうという考え方はないのだろうか。その方が、表層ではなくもう少し深いところにある私たちの考え方の違いを議会に反映することができるのでは。二大政党制とは、考え方の違う二人が話し合って国の方向を決めようとする仕組みである。それはもしかしたら、四人とか五人の方がいいのかもしれない。

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2017.10.08

慣性としての言葉




父が家中のシャッターに紐をつけた。手で下ろすのが大変なのだろう。と言っても、そこらに落ちてたのであろうUSBコードとはいかがなものか。ぶらぶら邪魔だから輪にしたら、ちょっと記号的になってしまった。



カメラを一つ買う。まだフィルムカメラを。

三十代の半ばを過ぎた頃にあった変化は、否応なく、いやある意味自然に僕の生き方に大きな影響を及ぼし、今もその延長線上を僕は生きている。そのことがなければ、ベルも来なかったし、こんなに写真を撮るようにもならなかっただろう。僕の人生の折り返し点だったのか、異次元へのワープだったのか、それとも神の啓示だったのか。その時点の倍、七十過ぎまで生きれば、答えを知ることができるのかもしれない。

カメラとレンズに刻まれたF値とシャッタスピードが見えなくなった老写真家は、どうして写真を撮り続けるのだろう。



ZARDを聴きながら、プリントを少ししている。

あらゆる方向から入ってくる線の交点が、自分の位置を定めている。一人の人間の意思とはなんだろう。細胞、私は、細胞に過ぎない。あらゆる方法で意思を高めようとも、細胞なのである。

生きている詩人、そう自分を表現する若い詩人の言葉に納得した。確かに一般的には、詩人はとっくに死んでいるものであり、辛うじて生きているのは谷川俊太郎ぐらいのものである。

韓国には「生きている詩人」がたくさんいるようだ。きっと、彼の国では、国と人々と、そして自分を言葉に置き換える必要があるのだろう。

死んだ人は、そこで終わるのだけれど、残される言葉は、生きていたことの慣性のように、続いていく。時にはその慣性が加速したりする。ZARDの歌も、当時街で流れていた時よりもずっと心に響いてくる。慣性は時に、普遍化する。人間は死して初めて誠実を手に入れるのだろうか。棺に飾られる痛みのない花のように。

普通の人、そう言うとほとんどの人がそれに当てはまり、ほんの少しだけ変わった人がいるように思える。でも、実際には普通の人なんているのだろうか。例えば点数をつけて列べられるものなら、ちょうど真ん中に位置する人が普通なのだろうか。そこに幅をもたせるなら、前後どこまでかを普通とするのか。普通とは、本来全体に通用するというような意味なのではないか。要するに普通の人とは、人、みんなに適応できる要素を持つ人。変わった人も含めてみんなということになる。

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2017.10.07

冬、その役割




棺は、放置するものではない。土に埋めるものである。あるいは燃やし尽くすものである。それは、生を葬るためではなく、死を処理するために。自らの死は不可視のものである。自らの棺を用意するのは、死の可視化なのかもしれない。そこでは、死は残像として存在するもののように思われる。しかし、残像に具体的な手がかりはあっていいのか。いや、これは、あくまで私にとっての死の対象化に過ぎない。実際には、それもまた同時に燃やし尽くされるべきものである。

僕は、案外長生きするかもしれない。死を見つめる時間はたくさん残されているのかも。年金保険を厚くしないといけないかな。まったく人生は博打である。その賭場で、誠実でいることはとても難しい。

第二次大戦末期には、戦闘機による特攻以外にも、本土防衛のためにあらゆる自爆攻撃が用意されていたらしい。兵隊すべてが、そして国民すべてが、死を予感し、そこに向かっていた。その時点における守るべきものはなんだったのか。そこにあの戦争の本質はあるのではないか。全体主義とは、すべてと引き換えにできる何かがあると考えることなのでは。

今日は、イオンモールでウィスキーを買おう。

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2017.10.04

一時保存




一時保存したままの記事、その中の一つ。自分が書いたものでさえ、時が経てば不思議に思えたりする。

境界Ⅰ  岸辺
境界Ⅱ  やさしさ
境界Ⅲ  Self and Others

サンクチュアリⅠ  埠頭の子犬
サンクチュアリⅡ  野鳥園
サンクチュアリⅢ  島

彼方Ⅰ  遠い場所
彼方Ⅱ  あなた
彼方Ⅲ  死


言葉を忘れるという感覚が理解できなかった。関西に帰ってきて最初の一年ほどはとても言葉に違和感があった。海外に行くと伝えたいことが言葉にならない。もしかしたら、そういうことかもしれない。言葉は忘れていくものなのかも。

「結婚はしてもしなくても後悔するもの」
なるほどねえ。

ソウルの郊外、地下鉄で小一時間の場所に、美術館と遊園地と動物園が隣り合っているところがある。それらは、かわいい動物の形をしたトロッコのようなバスで結ばれていて、大勢の人で賑わっている。

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まるで恋するのと同じように




五十年以上生きてきても、季節の変わり目には風邪をひく。まったく愚かとしか言いようがない。

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2017.10.03

coffin




私を納める、あるいは葬る棺を作る。その棺に納めるものだけが私である。もちろん私はその時すでに存在しない。それは、私の抜け殻のようなものであり、他者を介した存在としての私である。その私を完全に破壊するするものもやがては現れるだろう。それは、時間なのか意思なのか、どちらにしてもそれもいい。私の終わりであって世界の終わりではないのだから。そこでやっと、この世界は、私を形づくる境界ではなくなり、解放されるのである。棺は、私を世界から隔離し、世界に自由を与えるものである。

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2017.10.02


枝野さんは、堀田さんと宇都宮高校の同級生なのか。

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2017.10.01

京都一周トレイル 北山1-23














爽やかというのは、春でも夏でもなく、秋の季語なのだそう。

ケーブル比叡を降りて歩き始め、イヤフォンを外すと足元で砂利を踏む音が大きく響いた。私は、それほどにこの世界に影響している。

去年はあった比叡山スキー場のロッジがきれいに更地化されていた。自然の回復と言うべきか、さらなる破壊なのか。きれいなことに違和感を覚えるのはどうしてだろう。

延暦寺の山道を歩いているとすれ違うご夫婦の会話が聞こえた。「なんか無駄な動きしてない?」と奥さん。夫婦というのは、多くを知っているばかりに日常的には一番信用できない相手である。けれど同時に、多くを知っているからこそ、底堅い信用を抱く相手でもある。

地図なしで歩いたせいか、延暦寺の森に迷い込み、小一時間歩いて気がつくと同じ場所に戻ってしまった。もう一度同じ道を辿り、今度は分岐で出会ったおじさんに確かめてトレイルに戻ることができた。横高山、水井山、比叡山の横にそんな名のついた山があるのを初めて知った。仰木峠を越え、ボーイスカウト道と名付けられた坂を下ると大原に出た。貴船まで行こうと思っていたけれど、また今度にすることにした。

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2017.09.30

センチメンタルな九月 30

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時々、とても浜省が聴きたくなる。



雪のような悲しみと
雨のような厳しさと
風のようなやさしさと
太陽のような幸せと
折り重なる日々の中で
失うことのない僅かな記憶

やさしい人は、この世界から溶けるように消えていく。それが自然界における人間の優勢遺伝だ。けれど、日本国憲法は、やさしくても大丈夫、人間の価値は、今までみんなが考えていたこととは違うところにあるのだから、やさしくても生きていける世の中を作ろうよ、と語りかける。私たちは、生き残るのではなく、共に生きる決心をしたはずだ。宗教より尊い、思想よりもやさしい日本国憲法のその下で。

九月はきっとまた来年もやって来る。でも、その九月は、今年の九月とは違っていて、同心円上のほぼ同じところに位置するものではなく、彼方に伸びる線の上にあるもの。九月は決して重ならない。

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2017.09.29

あっという間に国のかたちは変わろうとしている

北朝鮮問題について考えてみると、どうも今のところ、北朝鮮が意図した通りにアメリカをはじめとした世界は翻弄され、良くも悪くも大国にとっても無視することができない国になりつつあるような気がする。かといって、実際にどこかを攻撃したわけではない。テロリズムを用いたわけでもない。要するに、武力を用いることなく、力関係に変化を加えることに成功していると言えるのかもしれない。もしかしたら極めて知的に国益を高めているのではないか。ここからは、譲歩すればするほど、国際社会から歓迎されることになる。もしかしたら、平昌オリンピックに向けて、大きく状況は改善して行くのではないか。そこまで考えての緊張の拡大だったのでは。案外、平昌では、南北仲良く行進なんていうことになるのではないか。
トランプ政権も、政策の危うさを北朝鮮危機を持ち出すことで国民の目をそらしている。安倍政権も、内政の批判をかわすようにそれに乗じて衆議院解散に持ち込んだ。政治は、真実を見出そうとはしないということだろうか。
日本人は、無宗教であり、無思想だ。国のためには命を賭しても、宗教や思想に殉死することはない。では国とは何か。国とは、社会であり、もっと小さなコミュニティであり、世間である。要するに、世間体のために死をも辞さない国民とは言えないか。私たちが見ているのは、いつも周囲の小さな世界であり、境界の内側である。それは、彼方に真実の光を持たないが為なのではないか。日本人にとっては、民主主義という考え方すら危うい存在だ。日本人にとっての民主主義とは、私はみんなと一緒ぐらいのことである。
日本の政治は、まだ未熟で成熟段階にあるのかもしれない。そう考えれば、一連の流れにも説明がつく。自民党が解党するくらいの変化の後にこそ、しっかりとした対立軸を持つ政党が現れるのかもしれない。

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センチメンタルな九月 29


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ふと思ったことだけれど、自然界に直線は存在するのだろうか。精度の高い球や円はあるような気がするけれど、直線や直方体はないような気がする。なぜ人間はまっすぐ線を引こうとするのだろう。あるいは四角いものを作るのだろう。そう言えば、地図を見ているとまっすぐな国境が気になることがある。その多くは、近代以降に引かれたものではないだろうか。人間の営みも本来は曲線的なもので、直線で作られたものは、自然を凌駕する目的を持って生み出されたものかもしれない。人間を分けるために引かれる線も、鋭いほどまっすぐなものではないか。

日本人の暮らしを陳腐なものにしている一つの原因は、新暦だろうか。グローバルな時代に新暦を無視することはできないけれど、暮らしの中ではもっと自然に旧暦を意識するようなことがあっていいのかもしれない。日本の歴史や文化を大切にするとは、武士道精神とか、そういうごく一部の限られた人々によって作り上げられたものをあたかも日本人の精神性にすり替えることではなく、人々の暮らしの中の思いを現代においても同じように感じることではないか。

道徳というのは、人間が生きていく術をわかりやすく一般化した方法論なのではないか。知性は、その道徳を越えていくものである。


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2017.09.28

センチメンタルな九月 28

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朝からの雨が上がったお昼過ぎ、急に季節が進んだように涼しい風が吹いていた。センチメンタルな九月はこうして終わってしまう。

昨晩見た夢は、覚えている限り初めての夢だった。この世界の中で自分に何ができるのか、それを試され、結果を求められるような。まるで「愛と誠」みたいな夢だった。眼が覚めると、まだ一時半ぐらいで、なんだかその余韻にもう一度眠った。

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2017.09.27

センチメンタルな九月 27


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たぶん僕は、・・・




恋をする代わりに、スキーに行ったり、山に登ったり、写真を撮ったり、旅をしたり、そんなことをしている。いや、代わりではない。それらすべてが、かつて抱いた恋心の続きなのである。きっと、僕の人生の中で言葉に置き換えられるものは、その恋とやがて訪れるであろう死だけである。僕は、その二つをつなぐ長い橋の上でいつまでも佇んでいる。眼下のよどみない流れは、二つを分断しながら、二つが溶け合っている。死は幻に過ぎない。目にすることのない幻だ。水色の空、花々の淡い輝き、初秋の光のすべてはその幻に似て儚い。

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2017.09.26

センチメンタルな九月 26


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駅前を車で通ると、子供の頃にできたショッピングモールが取り壊され、工事の柵の上に水色の秋空が広がっていた。最初に自転車を買ってもらったのがここだった。新しかったものも消えてゆく。相対性理論とは何の関係もないのだろうけれど、この世界に存在するすべてのものと僕という一点との関わりを思わざるを得ない。僕はその関係性の中でしか存在し得ないのであって、絶対的な意味での選択肢は他には用意されていないのである。水色の空も、白い柵も過去にそこにあったベージュ色の建物も、僕を作っている要素の一部に他ならない。変わって行く町並み、それ自体が、僕自身である。


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