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「境界のエクリチュール」 in Book of days

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2020.07.11

この歳になっても、人生はあくびをするほど長い

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「このような状況」と言えば、今はみんながその状況を共通のものとして認識できる。そして、結構多くの人が、経済的なことはさておき、精神的には居心地良く感じたりしているのではないか。考え方によっては、人間の暮らしの進化は、生活のための集団から個へと向かっている気がする。技術革新は常にその実現のためのものとも言える。今の社会状況は、そういう意味で、一足飛びに進化を促進したのかもしれない。

他人を信じるなら徹底して信じなくてはいけない。中途半端に信じて、いや信じているような気になっているから、「裏切られた」とか、「信じていたのに」という愚痴になる。信じるとは、嘘も含めてその存在を大切にすることかな。

香港に関する資本主義側の反応は、民主主義や人権を守るという表向きの正義とは別に利害が大きく作用しているように思える。そこにどうも胡散臭さを感じ、肯定しきれないところがある。香港の人にとって、その場所は、イギリスでも中国でもない居心地のいい場所なのだろうか。

80年代は、まさに僕の「青春」とほぼぴったり重なる。厳密には中3から高校3年、それにちょっと長い大学時代までの10年である。歌謡スクランブルの80年代のヒット曲を聴きながら不思議に思った。今から懐かしむ80年代は、80年当時からすれば40年代ということになる。なんて昔のことだろう。僕たちがあの頃戦争を考えるのと時間的には同じに今あの頃を思うということだ。でも実際にはそんな感覚を持たないのは、時代の流れが高まっているせいなのか、それとも緩んでいるせいなのか。あるいは、僕の中の時間の混乱のせいか。

自分の意思や感情を、まるで引き出しに仕舞うようにうまく整理できないものかと思ってしまう。よく使う必要なものは取り出しやすいところへ、封印しなくてはいけないものは鍵をかけて、そうしないと、いざという時に探しても見つからなかったり、反対に不用意に飛び出してしまったり、そんな不安を近頃感じるのである。

ふと思った。僕が一億人の国だったらどうだろう。同じように、安倍さんが一億人の国だったら。様々な個性、能力を持った人がいて国家は成立するなんていうつもりはない。国家とはどう考えても一つの意思で動くものではないということである。私たちはなぜ、国という線引きを信じられるのだろう。そこに居心地悪さを感じたりする場合もあるのだろうか。

青春時代に出会った人たちは、みんな本当に僕にいい経験をさせてくれた。そのせいで僕は今も立っていられるのだろう。僕は僕の青春を特別のものに思うわけであるけれど、それは誰もそうなのかもしれないけれど、そういうことも含めて青春の人生に対する作用なのだろう。

かれこれ十三週か四週続けて週末家にいる。冬になるまでこんな感じかな。来週は白馬、とも考えるけれど。いくら政府主導で旅行キャンペーンをしても、人々の気持ちはなかなかそこまで行っていないだろう。徹底してコロナウイルスに対する不安と暗黙のうちに相互監視を煽ったのだからそれは仕方がない。国民が政府の思い通りには動かないことを示すことも、万能感を抱いている現政権にに対する警鐘になるだろう。

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2020.07.09

いざゆけ遥か希望の丘を越えて

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自分のために四百円のケーキを買うのは勇気がいる。決心というべきか。コンビニの二百円ちょっとのお菓子を買うのだってそう。百円のシュークリームが限界というところかな。

安倍さんの言葉には、破廉恥なところがある気がする。自民党であっても、いや自民党だからこそ、過去の政権では、いくつかの失敗が重なると倒閣が起こり、党内でも異なる考え方をした勢力が政権を奪取してきた。安倍さんだけではない、今の自民党の多くの政治家は破廉恥なのかもしれない。何より自分が恥ずかしいと思い、とても人前には出られなくなるのが普通ではないか。要するに、自分たちが信じる「大義」のためであるならば、何も恐れることはないというのが、彼らの考え方なのではないか。その元には、戦後今まで続いた日本の民主主義は間違っていたという考え方があるような気がする。私たちにとってそうなのだろうか。

差別とは、多くの場合、現代においては結果的に搾取され続けた側と既得権を守ろうとする側の軋轢なのではないか。私たちはすでに何らかの違いが人を分けるものではないことを知っている。それでも、双方には依然として不満が残っているのである。それを解消することができれば、そしてそのことを誰もが当然と考えるようになれば、もしかしたら差別はなくなるかもしれない。差別の根底には、何より欲望があるということなのではないか。そういう意味では、資本主義社会において差別は半永久的なものなのかもしれない。徹底した再分配が残される可能性と言えるのでは。

本来なら、人間もまた他の生き物たちと同じように、自分たちが生きていく上で適した環境の場所を選び、そこに暮らすものなのだろう。今の私たちは、社会の中で自分に適した場所を探そうとするけれど、自然の中で適した場所という考えはあまり前提にしていないのではないか。数日前に見た過去の水害を扱ったNHKの番組で、コメンテイターの研究者の人が、「本家は安全な場所にあるけれど、その分家が危険なところにある場合がある」というようなことをおっしゃっていた。要するに、人間は自分たちが安全に住める場所だけには収まらず、どんどんと新しい場所に進出した。特に日本では、狭い国土と戦前戦後の人口爆発が重なり、人が住んでいないところはほとんどないというくらいに国土開発を行ってきたわけである。しかももともと自然災害が多い地理学的場所であり、遡れば、日本人すべてが、ある意味では、この研究者の人が言う分家のような存在なのではないか。そういう意味では、日本は国是として、国土整備を続けていかなくてはいけないのかもしれない。そうやってようやく、ここに住み続けられるということである。日本人にとっては、安全保障上の危機よりも際迫った生命の危機として自然災害があるというわけである。それを実証するかのように、自衛隊の任務のほとんどは、災害派遣ということであるのだから。何も迷彩柄の制服でその任務に当たる必要はないだろう。もっと災害派遣に特化した組織にすればいいということだ。そして、その部隊が世界で起こる災害にも派遣されれば、それはもう大きな世界平和への貢献となるだろう。

支配する、支配される。あるいは支配したい、支配されたい。そういう切り口でこの世界を見ようとするにが保守というものなのかもしれない。これは、私たちに備わった生きて行くすべのようなものかもしれない。リベラルはそういう世界観から理性の力で脱却しようとするものである。そんなことをある保守的立場の政治学者の人の記事を読んで思った。女性に案外保守的思想を持った人が多いのは、歴史上常にそういう世界観に晒されてきたことによって、自らを生かす方法として理想よりもそういう現実を見ようとする人が多いからではないか。保守が理想世界でないことは確かであろう。天皇制や武力を背景にした外交、前時代的封建社会への憧れが理想世界であるはずがない。それでも、今保守思想が力を持つのは、現実の中で生きるすべを思想化するが故ということであって、言い換えるなら、保守は変えられない世界の中で自分が変わろうとする考え方であるからではないか。リベラルは社会を理想に近づけようとするから、見方によっては、不満ばかり言っているということになる。しかし、不満こそは、可能性なのである。その不満を一つひとつ解決する力を持てば、リベラルに再び支持が集まるということではないか。

もしかしたら、現代に生きる私たちは、必要以上に生きることにエネルギーを使っているのかもしれない。技術革新は、どんどんと人間を楽にするはずなのに、肉体的にはまだしも、精神的にはますます追い詰められているのではないか。楽になった分は楽をしなくてはいけない。より効率的に生産性を上げるようにするのでは、本末転倒である。何しろ、生産性を上げた結果生じるはずの余剰価値は、予め折り込まれてしまうのだから。

この人生を選んだことによって失ったものはたくさんある。近頃それを一つひとつ自覚するようになった。ただ、その代わりに得たものもまたたくさんあるように思う。それをうまく使えば、選択に依存することなく、自由でいられるのではないか。どんな道を選ぼうとも結局たどり着くところは同じである。という仮説を立ててみる。もちろん、それが死であるとかいうありきたりな言い回しではなく、同じ一つの意思をもって歩むならば、導かれる場所もまた一つなのではないか。

コロナ騒ぎの後には、いつまでもやまない雨が降っている。週末どこかに行こうかと考えるけれど、家にいてテレビを見たり、お昼寝したり、音楽やラジオを聴いているのが、一番楽で楽しいかなと思えてくるから困ってしまう。それにしても、梅雨とはいえ、こんなに毎日大雨が降ることが今まであったのかな。やっぱり世界は根本的な何かを変える必要があるのではないか。

ラジオから流れる本田美奈子の張りのある元気な歌声を聴きながら、同世代でも、すでに少なくはない人が、身近でも有名な人でもなくなっているんだなあとあらためて思う。ひとりの人間の存在というのは、この世界とどのような相関を持っているのだろう。たくさんの歌声が残され、たくさんの芸術が残され、たくさんの言葉が残され、たくさんの記念館や記念碑が作られる。どんな深く刻まれた爪痕も、やがては消えてしまうだろう。

「中の人」という表現に心引かれるのはどうしてだろうと考える。着ぐるみの中の人、テレビの中の人、他にもあるだろうか。何だかそれはとても優しくて愛おしいものに思える。もしかしたら、身近でありながらも、直接関わりがないがための安心のような心理なのだろうか。他者と関わるということは、人間にとって生きていく上で欠かすことのできないことでありながら、最もエネルギーを必要とすることである。テレワークもテレワークの中の人みたいな関係性で、ある意味では、オフィスでの人間関係よりは安心できる物質的距離を保つものかもしれない。中の人と自己との関係というのが、これからの自己と他者の関係になるのだろうか。あるいは、自分自身が何らかの「中の人」と考えることができるかもしれない。

経済を優先するなら、感染しても適切に対処すれば生命の危機にはつながらないというように、もっと徹底して経済優先を打ち出すべきではないか。ウイルス感染の不安を煽り、相互監視を促しながら、同時に経済の回復に重点を置こうとすれば、国民は何が真実なのか分からなくなる。あとは、個々が自分に判断で行動するということになるけれど、それもいけないようにいうならどうすればいいのかということになる。

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2020.07.06

(I Can Get No) Satisfaction

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カスタマーサティスファクションと「お客様は神様です」を同次元で理解してしまっているところに日本の商業の悲劇的とも言える苦しみはあるような気がする。前者は本来、提供する商品や商品としてのサービスにおける顧客満足の最大化を図るという考え方であり、後者はあくまでエンターテインメントという演者と客が直接的に見えない価値をやり取りする関係において、半ば自嘲的に、あるいは一種の皮肉として示される思いであるのではないか。こういう海外から導入された考え方の日本化において、曲解が生じ、結果として人々を苦しめていることは他にもある気がする。例えば、ISOによる品質管理も日本化において過度な管理体制を強いてしまっているのではないか。また能力給という仕組みも、変なことになっている気がするし、テレワークとか、感染対策全般だってそうなのかもしれない。もっと言うなら、もしかしたら、明治以降の近代化自体がそうだったのかも。

以前は、世の中には社会の外に暗黙のうちに許容されている部分があって辛うじてその場所で生きていくという方法があったのではないか。それは今では、すべてが社会の範囲内に収められることによって、すべてに社会のルールが適用されるようになった。そのことで、社会から除外されることは即、生きて行きことの困難さにつながるようになっているのではないか。

兎にも角にも、世の中を緩める必要があると僕は思う。そのことによって社会のパフォーマンスが悪化したとしてもしかたがない。そうでもしなくては、高まるばかりの潮位に多くの人が溺死してしまうことになるのではないか。

なんだかまた、(普通の)風邪をひきそうな気がするけれど大丈夫かな。この気候では体調を崩す人がたくさんいつだろう。みんなためらわずに病院に行くべきではないのかな。そういうこともあえて政府から国民に伝えたほうがいいような気がする。そうしないと、普通の風邪が原因で命を落とす人が出るのではないかな。

長い間太陽を見ていないなんていうと大げさかな。雨の日は嫌いではないし、この時期の景色特有の匂いも好きだ。でも、毎日こんなに激しく雨が降ることなんて子供の頃あったのかな。逆にもっとはっきりとした夕立がそのことにはあったような気がする。こういうのも記憶の作用によるのかな。

久しぶりにピーチの予約サイトを見てみる。当然、ソウルや釜山には飛んでいない。ただ、北海道や仙台にはとても安く行くことができるようだ。でも、どうなのかなあと思ってしまう。勝ちに金曜の夜の便で札幌に行くとする。JRやレンタカーを使えば十分富良野へ行けるだろう。それ以上のイメージがふくらまない。北海道だけではない。白馬に行くことを想像しても、何と無くそれでどうするのということになってしまう。スキー旅行や韓国への旅だといけばやることはあるということなのだけれど。行ってみることが重要なのだと頭では考える。でも、家でテレビを見て昼寝している方が、楽でお金使わなくて幸せかなと思ってしまう。何にもしない楽しさを知ってしまったがゆえの怠惰である。

昨日のラジオで渋谷陽一が紹介していたのだけれど、ニール・ヤングが1980年代に彼女に振られた直後に傷心のまま製作して、あまりに内面的な内容であったために未発表になっていたアルバムがあらためて発売されたらしい。なんだかその経緯を聞くだけで心が揺らされる。

ストーンズの「サティスファクション」って、僕が生まれた1965年の5月に書かれたらしい。だからどうなのといいことだけれど。

私たちは、北極の氷が溶けてシロクマの居場所がなくなるとか、ツバルが海に沈むとか、氷河が後退しているとかいうことで気候変動の最先端を知るわけであるが、実は、大陸の端っこの列島に住んでいる私たちもまた、その最先端にいるのかもしれない。

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2020.07.05

青春の話をしよう

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「青春とは人生のある時期を言うのではなく」というのは、サミュエル・ウルマンの詩であるけれど、僕はまさに青春は人生のある短い時期を言うのだと思う。彼が言いたかったのは、メタファーとしての「青春」であって、「青春のような」ということで何か違う言葉に置き換えられるものではないか。それを言葉通り都合よく直接的に理解するものではない気がする。それでは、青春を貶め、冒涜することになる。僕は積極的にその青春の話をしたいのだけれど、案外誰も、今さらという感じで話題に上ることは少ない。青春とはまさに一瞬の輝きであり、人はその残光に照らされた長い道を歩き続けるものなのではないか。もしかしたら、これは「神」がいるかどうかということと似たニュアンスがあるかもしれない。神もまた、メタファーということになる。

久しぶりに車で遠出、名古屋の妹の家に買ったまま預けっぱなしの絵を引き取りに行った。途中、高速道路でお猿さんがひかれていた。他の動物と違ってその様はまるで私たちと同じようで、通り過ぎる一瞬、見開かれたその瞳と目があったような気がした。

やっともうすぐ五つになる姪を見ていると彼女なりに精一杯生きているように思えて、かわいいというより胸が痛くなる思いだ。七夕の短冊には、パパとママがいつまでも元気でいてくれるようにと書き、何をやるにしてもパパに似たのか、じっくりと考え冷静に対応する。まるで早く成長しないといけないと思っているかのように頑張る。他の子に比べると本当に手がかからず、しっかりしていて周りから驚かれるそうだ。彼女が高校生になるまであと十年余り、社会に出るまでなら十五年と少しぐらいかな。そこまではなんとか僕も見届けられるだろう。いや、それは僕にも少しは責任のあることかもしれない。姪への責任であると同時に、妹への責任というべきか。妹が、うちの家にとって消えかけた光をもう一度灯すように誕生したのと同じに、姪もまた、その光を守るために私たちの前に現れてくれたような気がする。いや、すべての人が、誰かにとって、導きの光としての存在なのではないか。すべての光が健全に輝くならば、この世界に暗い陰は生じないかもしれない。

もしかしたら、民主党政権が短命に終わった原因は、国民の政治的責任に対する恐れだったのではないか。日本国民は、真の民主主義に向かおうとする道で逃げてしまったのである。

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2020.07.04

君は1000%

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ふと思った。一度、一所懸命にやってみたらどうなるのか試しとみようと。ちょうど目の前に面倒だなと思っているテーマがひとつある。さて結果はどうなるのか、五十五になって考えることではないかな。

なぜ多くの国で「強いリーダー」が求められ、政権の長期化が進むのだろう。私たちは、自分たちの無力さを省みるべきなのではないか。

記憶には時間がない気がする。まるで切り株の年輪を数えるように自分に刻まれた失敗を数えることではじめて年表化される。

検査数が増えているから感染者数が増えるというのであれば、検査数の少なかった以前にはもっと感染者数が多かったということになるし、もっと検査数を増やせば、感染者数もそれに連れて増えることになる。なら、感染者数って何ですか。多くの人は、他国に比べて、日本人の国民性や生活習慣が幸いして感染者数が少ないと信じている。僕はそんなわけないと思うけれど。少なかった理由は、まず日本人の恥と世間体を極度に気にする文化、次には政策的な数値の抑制、それに一億総監視•総隠蔽体質ではないか。ここにきて、それが緩んできたことで数値が再上昇しているともとれる。しかし、ここで政策的制限を再度強化したなら、みんな諦めてしまうだろうからできない。ここは、数値に対する適切な危機感覚を国民が共有する必要があるのではないのかな。確率から言えば、一貫して怯えすぎと思える。いったいどれくらいの可能性で罹患するのか。症状は他の風邪やインフルエンザとどれほど異なり、どのような危機があるのか。感染防止策は周知が徹底されているけれど、その辺りがいまに至るまで曖昧にされているような気がする。何だか、二ヶ月、三ヶ月前の再現を見ているようだ。もしかしたら、オリンピックの延期が決まった途端に方針転換があったように、今回も東京都の選挙が終わったらいうことがころっと変わるのかな。何だかそう考えると、コロナ禍も人災の範囲なのかな。この涼しさで絶対風邪を引く人は増える。その中にはコロナウイルスに感染する人もいるだろう。その辺りを精査した方がいいような気がするけれど。今でも何と無く病院にはいってはいけないような気がしてしまう。そんな病気はないでしょう。

みんな違うと考えるべきなのか、みんな同じと考えるべきなのか。人間は違うことにとても敏感だ。しかし、どんな大きな風景の中でも、ずっと遠くの人影を他のどんなものより先に見つける。

最前線においては、誰もが目の前に迫る危機から自分の身を守るために戦う。それが戦争のすべてではないか。そしてその場所に行く理由は何であろう。それもまた、生き残るためなのか。要するに、何者か、大きな力に追い込まれて、人は死に向き合わざるを得なくなるのではないか。自分の死に、他者の死に。愚かで滑稽で、同時に避けようのない悲劇。

めんどくさいことをやろうとすれば、それをめんどくさいと思わなくなる心の余裕を生み出す仕組みを作らなくてはいけない。今社会に求められていることは、そういうことなのかもしれない。この2、3ヶ月で、みんなそんな無理しなくても社会は回るということに気がついたのではないのかな。ただ、それがいつまで許されるかなのだけれど。

中学校の同級生の顔を思い浮かべながら、ふと思った。来年で卒業から40年になるのか。社員番号が90で始まったのを覚えているから今年は社会に出てから30年。結婚してから、来年でたぶん25年。銀婚式か。何だかみんな天文学的数字に思え、そこまでの距離は、一瞬と永遠の交差する光を介して光年と単位付けたいものだ。

なんだかこの何もしなくていい数ヶ月で、厭世感が高まった気がする。これをもとに戻すのは容易なことではないかも。

「君は1000%」を聴くと一人の先輩の顔が頭に浮かぶ。どうしていらっしゃるのか。「卒業」や「なごり雪」を聴いて僕のことを思い出してくれる人もいるかな。

ユニクロでセールのTシャツを一枚買った。なかなかいいと思う。ユニクロは伸び代というか、方向を間違わなければ広がっていく余地がまだまだあるような気がする。同じアパレルでも三陽商会との差はなんだろう。もしかしたら、日常への着目かもしれない。永遠なのかと思うほど繰り返される日常、それを少し心地いいものにしようとする観点。ユニクロとしまむらと、あとはワークマンがあれば、日本人は着るものに困らないだろう。それらはまた、ネットが取りこぼす領域とも言えるかもしれない。三陽商会の路線でユニクロと戦おうとすれば、その価格の違い相応の価値を生まなくてはいけない。そんなこと無理なのだ。

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2020.07.01

この世界はいつも、唇と銃口の間にある。

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冬にスキーで痛めた右肩がまだ治らない。っていうか、病院にも行ってないからそれはそうなのだけれど。一年ぐらいしたら自然に治るものなのかな。時々指先まで痛くなったりする。その痛みを感じながら身体の不思議を思う。

感染第二波とか言われているけれど、要するに一時的に安定していた気候がここに来てまた涼しくなったり、エアコンつけっぱなしで寝たりで、風邪を引く人が増えているということではないのかな。

インターネットに真理を求めようとしてはいけない。そこにあるのでは「欲望の交差点」に過ぎない。では真理はどこにあるのか。案外それぞれの人の心にあるものなのではないか。それを取り出せないほどに歪めているものがあるのだ。それが他者の存在ではないか。真理は無垢である。よって容易に歪められ、見失われる。

年をとってくると、動かないと身体のあちらこちらの動きが本当に悪くなってしまうみたいだ。気がついたところでは、心臓、股関節などであるが、無駄に運動をすることのバカバカしさを思っていたけれど、そうもいかないのかもしれない。無駄に動かなと、動こうとした時に動けない。

昨日の分の日記を書こうとしても、昨日何したか全く覚えていない。昨日のイメージを何も思い出せない。ある意味すごいなあと思う。

考えてみれば、ブルーインパルスを飛ばすよりも、向こう一年か二年、防衛費を大幅に削減してコロナ対策の財源の根拠にすれば、まるでタブーのように語られることのない将来の負担を軽減させることができるのではないか。それによってどれほど安全保障に穴が開くというのか。

僕の知る限り、現在は最も世界中が何でもありの状況にある。第二次世界大戦後、人間が自分自身をどうにか律しようとしてきた流れは、あまりにも脆く崩れ去っている。何より恐ろしいのは、世界の秩序を、国家の秩序をあるひとりの人間が破壊できる状態になってしまったことだ。

コロナ禍は、「個」を消滅させ、社会を一つの生命体にさせている。それを妙に心地よく感じている人も少なくないのではないか。全体主義は、独裁の手法であり、生活の苦痛を緩和する麻薬である。

いつも思うことだけれど、僕は比較的素直に日本の民主主義教育を受け入れて育ったはずなのに、意見が合う人が少ないのはなぜだろう。そうであるとすれば、僕が社会人になって以降の日本の方向性が大きく変わったということになるのかな。現実主義の台頭ということかな。今では、教育現場にさえその現実主義は浸透しているのかもしれない。日本を取り巻く環境としては、僕が子供の頃と大きく変わったのは、中国経済の成長ということになるのだろうけれど、安全保障上は、その頃と今を比べれば、そんなに変わっていないか、危機は後退したと言えるような気がする。中国の方向性には様々な見方があるけれど、日本にとって差し迫った脅威ではないような気がするけれど、どうなのだろう。何だか日本は、「怯えている」という状態のように思える。その怯えこそは、歴史上も日本を間違った方向に導いたのではないか。怯えは、危機として国民に浸透し、妙な愛国心がもてはやされる。日本人は平和ボケしているくらいの方が、ちょうどいいのではないか。どうせ理性が制御する民主主義国家における愛国心など持てないのだから。

夜、「いとしのクムサウォル」を見ている時が、一番心穏やかで、心が解放されている気がする。ということでいいのか。まあ、いいでしょう。

天皇制を肯定することは、暗黙のうちに差別を肯定することと同じではないか。これは、ヨーロッパの王族よりもずっとたちが悪い。「人間は生まれながらにして・・・」ということにつながるわけである。日本人は、多くの場合、自己肯定の根拠としてこれをうまく利用しているのだと思うけれど、それに頼っている間は、アメリカに依存する安全保障よりもおかしなことである。保守が、改憲の理由をそこからの脱却とするならば、それ以前に、私たちは象徴天皇という歪んだ国家観からまず脱却するべきであろう。天皇が国体と同体であるとすれば、日本は何百年も先にもこの制度のままに国家を機能させるのだろうか。安倍さんが、自虐的史観を子孫にまで引き継ぐことのないようにというならば、それ以上に、きっと明治以降たかだか百年余りの間に作り上げられた近代日本の幻想的国家観をこそ、断ち切るべきなのではないか。矛盾の上には、どうあがいても真理を積み上げることなどできないのだから。それとも一貫して虚実を積み重ねることがこの国の国是なのか。国民はそれを知っていながら、禍を恐れるあまりに知らないふりを続ける。甘い自縛の恍惚に酔いながら。

大きな流れ、緩やかではあるが全てを押し流すような、の中で個々は立ち止まって考えることを許されない。気がつけばその流れに浮かびながら


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2020.06.28

Can you hear my heartbeat ?

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佐野元春の最初の三枚は、完璧だと思う。それ以降、近年発表されている作品も聴いてみるとその延長線上にしっかりと乗っている。彼はまさに一貫して詩人である。

たまたまテレビをつけるとやっていた「空母いぶき」を途中から見た。この映画のストーリーにはいくつかの偶然、あるいは奇跡が盛り込まれている気がした。自衛官が極めて高い知性を備えているということ、政治家が国民のことを第一に考えているということ、マスコミが健全であるということ、国連がそれなりに機能しているということ。現実はどうだろう。ここでは人間が不完全なものであるという前提が欠けている気がした。戦争の最大の原因はそこにあるのではないか。不戦とは、それをどのようにコントロールし切れるのかということなのではないか。人間はあまりに愚かであるが故に、悲劇は繰り返されてきたわけである。愚かな人間であっても悲劇に至らない方法が憲法9条の戒めである。また、戦争についての語り口が常にそうであるように、正義はこちら側にあり、相手の姿は見えない。攻撃すれば相手方に戦死者が出ることのためらいは描かれているが、ここでは切迫した自らの危機に対する反撃ではなく、まるで自衛隊内で検討されているであろう様々なケースにおける対処としての軍事行動であり、死もまたその範疇で語られる。西島秀俊をはじめとした俳優は与えられた役を丁寧に演じているけれど、そうであるが故に、肯定的であるのが歯痒い気がする。

世の中は元に戻ろうと身震いを始めている。でも、実際には元に戻るというよりも、生物、いや私達の身体が復元されるときのように少し違ったものになってしまうのだろう。

はっきり言ってもう何にもしたくない。何だこの感じは。行くところもないので、服部緑地の本屋と松屋町のスキーショップに行く。本といえば印刷物という思い込みがあるけれど、ここまで印刷物としての本が衰退してしまったなら、手作りの「もの」としての本というのもいいのかなと思う。大衆の情報源、娯楽としての出版物は不要になり、作品としての本が辛うじて残される。ニューモデルが店に並ぶこの季節、思いの外、スキーショップは混雑していた。再来週こそは、雪のないスキー場に行く計画を実行したい。

ますます太ってきたので、ちょっとカジュアルすぎると思いながらもユニクロのウエストがゴムのズボンを平日もはくことにした。苦しいよりいいでしょう。いろんなことがもっと自由でいいと思う。自由と楽は違う、という考え自体、自由ではない。

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2020.06.25

Monad

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生きることは、他者との闘いであると考える人と他者との共生であると考える人に分けられるような気がする。その両者が、社会を構成し、共存するためにはもっと立場を明確に表す必要があるのかもしれない。そしてそれは、現代における最も基本的なイデオロギーなのかも。何だか20世紀の終わりから続いている国会の中の混沌も、そういう立場分けをすれば、議論が見えてくるのではないか。もちろん現実はその中庸にあるものだと思うけれど、互いにとって、その位置を見出すためには、それぞれがいる場所を表明し、そこから見える世界観を言葉に置き換えなくてはいけない。

国家とは、愛するものではなく、利用するものなのかもしれない。なぜなら、それを司っているものは私と同じ欲望にまみれた人間であるのだから。政治家が見せるどうしようもない陳腐な喜劇を観ているとそんな風に思えてくる。

軍隊は武力行使をすることを前提に存在するものだ。よって軍人が交戦を前提に物事を考えるのは当たり前のこと。ただし、武力行使が国家間の紛争の解決策になるかどうかは、軍ではなく、政治家、いや私たち一人ひとりが考えることだ。

写真を撮らないほうが旅行は楽しいのではないか。

彼はまだ佐野元春を聴いているだろうか。寡黙でシャイな彼が、三年生の文化祭を前にしていたクラスの中心にいた。その年の僕たちのクラスは、校庭をいっぱいに使った盆踊りを女子を中心にして企画していたのだけれど、その準備に並行するようになぜか佐野元春のローカルブームが盛り上がり、大ファンを自認していた彼がそれを牽引した。佐野元春は当時僕たちが聴いていたニューミュージックや洋楽の様々なエッセンスを取り入れながらも新鮮で、そこには僕たちが想像した未来の景色が映り込んでいたような気がする。文化祭の当日、準備が進む校庭の端っこで、僕たちは彼がカセットデッキで流す佐野元春に合わせて、盆踊りのハッピ姿で踊っていた。夢のようにキラキラとした未来は確かにすぐ目の前にあるような気がした。歌詞にうたわれている都会の恋、愛の謎が解けるのは意味不明だった数学の問題よりは現実的に思えた。この世界は間違いなく自分につながっていると感じていた。彼とは同じ大学に進みながら疎遠になった。それも僕のせいなのだけれど。1983年の佐野元春のライブアルバムを聴いてみる。たぶん僕は、その年に道を間違った。結果的には、人生最大の分岐点で。そこまで戻ることはできないなら、身を傷つけるような藪をかき分けてももう一つの道を探すべきか。

今、毎日見ている「いとしのクムサウォル」は、出生の秘密、社会の格差、主人公をいじめる意地悪な人たち、明るくて純粋な主人公と典型的な韓国ドラマなのだけれど、そこには悲劇も喜劇も愛憎劇もあらゆる要素が混在していて、何とも見ていて楽しいのである。考えてみれば、その混乱はソウルの街の景色にとても似ているような気がする。彼らは精一杯、自分の信じる真実を追い求めて生きている。予定調和のような日本とは少し違った美しさがそこにはある。

感染を恐れて車で移動するのがいいのか、それとも電車が安全かといえば、圧倒的に電車の方が生命の危険は小さい気がする。

そろそろ年寄りの振りをできる歳になった。年寄りだから行ける場所、年寄りだからできることがあるような気がする。例えば、山の上の植物園をぶらぶらと歩いてみることとか。

近所のほぼ同世代の奥さんでいつ見かけても畑で農作業をしている人がいる。専業農家というわけではなく、たぶん自家用の野菜を作ってらっしゃるのだと思うけれど、小さなミニサイクルに鍬をくくりつけ、その人は村の周りにいくつかある畑を毎日のように行き来する。そこは彼女にとっての居心地のいい場所なのだろうか。それとももっと現実的なことなのか。

今回のウイルス騒動を誰も自らの罪に対する罰であると考える人はいない。しかし、ウイルスの感染拡大は、私たちの目で確かめられるものではなく、同時にそれを封じ込めることも容易なことではない。要するに見えざる手の仕業というしかない。もちろんそこで抗うことは許されるだろうし、それが人間を人間たらしめる使命であるに違いない。ただ、もう少し謙虚であってもいいのかもしれない。これはきっと戦争ではない。どちらかと言えば、私は誰で、何をすべき者であるのかを見つめる契機ではないか。私たちは試されている。私は試されている。その試練に対して、誠実であるべきではないか。

絶望が広がっているわけではない。不条理は芽生えているかもしれない。さらさらした混沌が社会を覆っている。

ウイルスという目で確かめることのできない対象を前にして、その存在をどう認識するのか、どのような形状を与えるのかは、もしかしたらそれぞれの人の世界観そのものなのかもしれない。ウイルスについて語る時、それは自分自身の有り様についての言及とはいえないか。

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2020.06.21

一つしかない、あの頃

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家でだらだらと週末を過ごしてみて思うのは、テレビを見ているだけで一日過ぎていくということ。これだけ多チャンネル化し、うちにはまだないけれど、YouTubeや動画配信まで見られるとなると、もう飽きることがない。この環境下で本を読むなんて余程の意思がなくてはできないことで、もともと本なんてものは暇つぶしであったわけで動画には勝てるわけもない。ただもしかしたらこのことは、私たちから想像することを奪って、とても現実的にしているのかもしれない。そして同時にイメージを均一化しているとも言える。でもやっぱり、映像を見ている方が楽だし楽しいとは言えるのではないか。しかたがないことかな。

僕はいつも、できないこととやらないことの言い訳を探している。思考のほとんどはそれに費やされている。時々どうしてもそれが見つからないときだけ、何かをする。「言い訳」のない場所に身を置くという手が一つある。もう一つは、何もしないと決めることである。その居心地の悪さを反対に利用する方法である。

事実上の行動制限が緩和されたのにやっぱり家にいる。考えてみれば、出てきていいよと言われて、のこのこと出ていくなんてばかばかしい。

もしかしたら、その国の言語がネイティヴに理解できたら海外旅行なんてつまらないものになってしまうのではないか。要するに意味のわからない場所に身を置くという心地よさこそがその楽しみなのでは。日常的に押し寄せてくる意味にうんざりしている。それは領域を争い、私を侵食し、改造しようとする。意味のわからない場所では、私は溢れ出すように解放されるというわけである。

旅をするという感覚が完全に身体から消えている。

三十数年分のズレをトラバースして元に戻ろうとしたならどうなるだろう。もちろんどれほどずれているのかはわからない。でも、ここは冷静に考えてどうするのが一番いいのかを選択する。三十年分戻るのはさすがに残された時間からすれば難しい。それよりは、斜面をトラバースするのが可能性があるだろう。

ウイルスは目に見えない。だから不安になるし、どうしていいのかわからない。もう一つ目に見えないものが思い浮かんだ。愛、何だか性質も似ている気がする。それに本当にあるのかどうかわからないところも。

「長く後悔するとそれも甘く感じる」と韓国映画の初老の男のセリフ。

このサボテンいつからあるだろう。大きな鉢に植え替えてたら、もっと大きくなったのかな。

角が一つ欠けた三角形は三角形ではない。でも、大部分は三角形であるし、三角形に意思があれば、自分は三角形だというだろう。その段階では三角形であることは動かしがたい事実である。これはどういうことを示唆しているのだろう。

今、三十五年ほど前の亜蘭知子を聴いてみると妙に現代的に感じるのはどうしてだろう。


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2020.06.20

気温が30℃を上まらない国で暮らしたい

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夏が嫌いなわけではないけれど、どうもそれは嘘っぽくって困る。

中江有里さんのSNSを見ていると、近頃急にイメージチェンジしているというか、覚醒しているというか、驚いてしまう。もしかしたら女性というものは、意識的に自分を変えられる能力を備えているのかもしれない。これはまさに神秘の一つである。

あふれる情報の中から選ぶことがあたかも考えることであるかのような時代の次には、遮断することが重要になる時代が来たのかもしれない。あらゆる情報から自分を遮断し、内省的に過ごすことが貴重な時間になる。

居心地の悪い世の中になったと感じるのは、すでにその世の中、時代とずれてきているせいかな。これ以上の進歩は望まなくなったし、今以上の新しいものがなくてもいいような気がしてしまう。

他人に会わなくてはいけないという義務が一気に薄らいでしまった。会社へ行かないといけない、学校へ行かないといけないという義務もそうである。営業担当者も顧客と会わなくてもよくなった。きっとコロナウイルス対策以前にも誰もが薄々感じていたことだけれど、半ば強制的に社会が変化した結果、特に問題はないのではないかということになった。ニュースでは、久しぶりに学校に行った子供たちの感想として「友達と会えて嬉しい」というようなことが紹介されるけれど、行かなくてもいいならその方がいいと思っている子たちの方が多いのではないか。僕は一度も学校に行きたいなんて思わなかった。特にいじめにあっていたわけでもないし、勉強することが苦痛であったわけでもないけれど、友達との関係は日々楽しいだけではなく、大きなストレスであった気がする。だいたい毎日、同じように登校して授業を受けることが自分の意思というよりは義務のように長い間続くことが当たり前であるのは今から思えば不思議だ。会社へ行くこともそうかもしれない。そこにはまったく自由がないわけである。もちろん、行くには行くが、そこで適当に過ごすということで一定の自由を感じ、心の安定をえるということは誰もがしていることだろうけれど、それは制限された自由である。学校へ行くとか、会社へ行くということも、本来はもっと個々の意思で判断されるべきものなのかもしれない。それでは社会が成立しないということになるけれど、その程度の社会にしておけばいいということではないか。きっと19世紀ぐらいまでは、社会とはそんなものだったのではないか。そう考えると、動力の発明と社会の有り様が密接につながっているような気がする。要するに動力の発明は、それに人間を従わせる結果をもたらした。人々は機械に従うようになったわけである。それが社会の隅々まで浸透したのが現代社会である。では、ウイルス対策として提案される「新しい生活様式」がそこからの脱却につながるかといえばそうでもない。新しい生活様式は、新しい管理システムによってより厳しく制限されることになる。富を追う限り、形式は変化しても、何かに従い、巧妙に搾取される仕組みからは抜け出せないのではないか。そして、もしそんなことはどうでもいいという意思を示すならば、その瞬間から、弾き呼ばされて宇宙をさまようことになるのである。まったく恐ろしいことだ。

テーブルの上のアリを目で追いながら、それと共存するにはどうしたらいいのだろうと考える。ありがちな言い方だけれど、空高くから俯瞰してみれば、私たち人間の様子もアリたちと何も変わらない。それどころか、満員電車や都会の町を見下ろすならば、その密集は、他のどんな生物よりも異様なのではないか。それもまた、人間本来の習性というよりも、近現代において急速に歪められたものと言えるかもしれない。誰か極めて高い知性を持つ人が、本当の人間の有り様を提言し実践するようなことは起こらないだろうか。もしかしたら、革命と呼べるほどのレベルで、私たちは変わらなくていけないのではないか。

政府が提唱する「新しい生活様式」の前に、人々の間から新しい価値観が生まれている可能性がある。

なんだか週末になっても行くところがないなあと思うわけであるが、こういう時にはソウルに行くはずが物理的に行くことはできない。そんな時には神島となるけれど、これまた、この時期に離島を訪れるのはいけないことのように思う。仕方ないので家でテレビを見たり音楽を聴いたりする。そうするといつもは聴こえない音が聴こえるようで不思議な気になる。白馬へでも行こうかな。

やっぱり遊びに行く気分として、マスクは変である。それが新しい生活様式の一部であるのかもしれないが、人々の思いが解放されるためには、マスクを外すことが必要条件になるような気がする。

「一日だけ試してみるのはどう。今日だけいつもとは違う自分になってみる。」と巡礼路を歩く引退した精神科の看護婦さんが提案する。なるほど、それはいい。僕ならどんな一日がいいかな。すべてのことをきっちりとやろうとするとか、出会った人には自分から話しかけるとか。

四十才の頃はこれから先がまだ途方もなく長いものに思えていた気がする。それが今は、出口から溢れる光が見えるようになったというところまではいかないが、楽園の気配が感じられるようになった。必要なものは時間ではなかった。

安倍さんは、日本という国を自分の理想とするものに改造しようとした。それは政治家の役割なのだろうか。ここにきて彼も急に失速しているけれど。もしコロナウイルスの影響でその失速が生じ、改憲や復古主義が実現しなかったならコロナウイルスは有益なものだったことになるのではないか。それにしても、野放途に拡大した経済を誰が尻拭いするのかという問題が残るのであるが。

素晴らしく安くなっているスキーウエアや板を買おうかと思うけれど、半年後にスキーに行ける環境かどうかに今ひとつ確信が持てないので躊躇ってしまう。ここが、未来を思う時に子供のころと今とでは違うところかな。子供の頃の未来は、この世界は変わることがなく、自分だけがどんどんと変化して行くものであった気がする。いまの自分も違う意味で変化しているわけであるけれど。

予想できる未来は想像した段階でつまらなくなてしまう。しかし、その中から、想像もしなかった結果を見るためには行動するしかない。

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2020.06.16

「できるだけ長く生きる義務があるなら登らない」とフリークライマー

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現段階で七月後半の連休に旅行の計画をする人は、性格的にちょっと冒険家で、本来なら海外に行きたいという人かな。特に家族旅行や友人との旅行となるとまだ予定しづらいだろう。お盆休みはどうかな。旅行というより、先延ばしになっている帰省をするかどうかというところか。そうしているうちに秋になって、夏の間の世間の様子を見て九月の連休をどうするか考えるという人が多いかな。そのころには国際線は飛んでいるのだろうか。結局社会状況が読めないから、なかなか計画を立てられないということになる。そう考えると、観光産業がある程度元に戻るのは来年以降になるのかな。そんなのみんな耐えられるのか。週末の街の様子は、インバウンド需要を除けば、相当客足も戻っているように思うけれど、まだ周りを見て行動している感じかな。日用品は売れるけれど、「ハレ」のものは予定がないからまだ難しい。思いの外、マスクの着用が継続されているのに驚く。もうみんな癖になっているのだろう。

人生は、三十年ハーフのゲームみたいなものだろうか。人によっては、あと十年か二十年ほど延長を戦うこともあるかもしれないが。免許の更新をしたら、次はちょうど六十歳になるときのよう。なんだか全てはそこに向かっているようで、逆に怖くなる。それを意識するときっと身体もそこに向かうわけできっと僕の寿命は本当にその辺りになるのだろう。あと五年ということは、最後の二年は、終わりの準備期間と考えるべきで、実質あと三年かな。それでもあと三年もある。三回田植えをして、三回決算をして、三回稲刈りをする。三回冬が来て、その後に三回、五月になる。本当に三回ずつかなと紙に三年を描いてみる。環境が許すなら、まだ三シーズンスキーができて、友人たちとも何度か会えるだろう。もう本当に十分人生を謳歌できて、あまりある時間である。それでも周りから見れば、六十で亡くなった人の葬式に行けば、「まだ若いのに」ということになるだろう。近頃思うことは、そう思われるのは嫌だなあということ。要するに自分が死んだあとさえ世間体を考えたりするわけで、なんとも面倒なものである。

コロナウイルスによる直接的な被害よりも、感染対策として取られた様々な政策による社会に生じた歪による被害の方が大きいという現実が次第に表面化している。要するに、これは人災であり、社会災という言い方ができるかもしれない。自分ではどうしようもできない社会の制約によって希望を失うという点において、これは戦争のようである。特攻に志願した若者たちの心情を考える。自らの死は、誰にとっても世界の消滅である。彼らが世界を救うというポジティヴな選択をしたのか、世界を破壊するというネガティヴな選択をしたのかはわからない。しかし、攻撃に成功(?)して帰ることのなかった人にとってそれが世界の消滅であったことに変わりはない。彼らは自分に許された社会的規制の範囲の中で最も自分を生かす方法を選ぼうとしたはずである。では、世界の消滅は自らの生となりうるのか。彼らにとって、世界は「いずれ消滅するもの」であったのではないか。その上で、自らの存在を自らによって確定させる方法が特攻であったということなのでは。

いったい僕はいくつのものに依存しながら、辛うじて生きているのだろうか。繰り返し多方に寄りかかりながら立っている。その様はなんとも滑稽である。

インスタグラムなどにあるおすすめというか、関連記事を表示する機能って、よくできているなあと思う。こういうのをAIっていうのかな。勧められたものと率直に向き合えば幸せになれるかもしれないと思うくらいである。でもなかなかそうはいかないのが現実ではあるのだけれど。

のうのうと生きているようでいて、誰の人生もフリークライマーや特攻隊員や、あるいはボクサーのようなものなのかもしれない。人は死を背負ってしか生きられないのではないか。だからこそ、この意味不明な世界と平気で向き合えるのである。

朝鮮戦争のように、日本人同士が東西に別れて戦争をするなんてことは今では想像できない。でも、日本でも、その数十年前には、戦争をしているという事実がある。韓国の人だって、今、北朝鮮と戦争をするなんて想像もできないのではないか。北朝鮮だって全面戦争をする気はないだろう。現代人は、戦争のバカバカしさに気づいていながら、戦争という選択肢を維持している。民主主義国家における武力の行使は、過去の封建国家のそれよりもずっとハードルが高い。私たちは王様を守るために戦うことはないのである。ただし、国体がその代わりをする可能性はある。そういう意味で、「国を愛する」ということに対していつも冷静でなくてはいけない。

日本に住む私たちが、アメリカで起こっている実感のない差別についてどうこう言っても仕方がない。差別とは、それが生じている社会の外側ではなんとでも言えるものである。私たちのこの社会の中でも、いくらでも差別はある。そして時に私たちは、アメリカにおける白人の論理と同じことを正論として平然と口にしている。解決の方法は、ただ一つである気がする。長い歴史の中でその差別の下で奪い取ったすべてのものを返すこと、あるいは奪い取られたすべてのものを奪い返すことである。その上で話し合わなくてはいけない。現状の是正だけでごまかそうとするならば、差別はいつまでも相互の関係の中で終わることはない。

災害や社会の混乱の中でも暴動や略奪が起こらないというのは、日本人の自慢の一つである。でも、それは損得勘定に過ぎないのではないかと僕は思う。あるいは、世間がそれを制している。どう足掻いても手の届かない高級ブティックに混乱に乗じて押し入り略奪をすることは、ある意味では社会構造の修正として必然と言える。そうならない社会こそは、本質的歪みがあるのではないか。

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2020.06.14

どこまでも遠いところへ歩いてゆけそう

他人は変えられない。変えられるのは自分だけ。でも、自分を変えることはとても難しい。だから何も変わらない。人は容易に変わる。適応する。器を替える。

「意味」への依存、それが第二次世界大戦に至る20世紀の潮流であったのではないか。そして、21世紀初頭まではひたすらそれを否定することに人間は向かった。今、その反動が少し表れている。しかし、世界の無意味化の流れが止まるわけではない。それほど、人間は積み重ねられてきた「意味」にうんざりしているわけである。意味を持たないものは自然である。意味の代わりにそこでは、絶対的な法則性が存在する。意味のない法則である。

空き地は放っておけばあっという間に雑草に覆われる。草刈りをし、除草剤を撒き、人は空き地を空き地のままにしておくことに苦労する。いったん根を張った雑草に覆われれば、容易にそれを取り戻すことができなくなることを恐れて。

領域を守るために言葉が用いられる。言葉で埋め尽くした領域に侵入者も諦める。

感情は意味の一部ではない。感情は雑草である。感情は法則である。

朝起きて特に出ていく用がないとコンタクトをつけないまま一日を過ごす。どうせ眼鏡ではよく見えないから、何をするわけでもなく眠くなる。

真実がどこにあるのかが全くわからない時代は深まっている。せめて、その中心にいる人たちは、誠実であることを示すことが求められるのではないか。真実とはまさにまずは自らを偽らないことである。失礼を承知で言うなら、まるで白痴のように躊躇せずに保身のための虚偽を重ねる総理の下では、誠実であることは価値を持たない。昔の人が誠実であったと言うつもりはない。しかし、昔は嘘とわかるように嘘をついていたのではないか。その嘘をどこまで許容するかは国民き委ねられていたわけである。

世界恐慌、第二次世界大戦、東西冷戦、壁の崩壊,同時多発テロ、コロナウイルス。壁の崩壊は、もしかしたら20世紀の理想の崩壊だったのかもしれない。それ以降、人々は理想を失ってしまった。その代わりに徹底した経済本位主義が世界中の指標となった。その象徴のようなツインビルが考え得る限りにおいて最も悲劇的な攻撃を受けようともその流れは変わらなかった。そして、世界に蔓延するウイルスの脅威を目の当たりにした今も同じことである。理想は形骸化し、嘲笑の的にさえなっている。

どこへも行く当てのないときは、国立国際美術館に行く。どんな展示があるか知らなくてもいい。そこには知らないことがあるということが重要である。そこではまるで、高原の景色を眺めるときのような、森に分け入ったときのような、わからないことが清々しく存在している。いくら眺めていても理解することなどできない。理解に対する諦めこそが、心の解放をもたらす。それにしても、いつになったら韓国へ行けるようになるんだろう。

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2020.06.12

こんな気持に揺れてしまうのは 君のせいかもしれないんだぜ  

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国会の議員構成は、本来世の中の縮図であるべきだと思うけれど、実際にはそうはならないのはどうしてだろう。国会議員になろうという意思のある人の特性、有権者の投票行動の歪み、ということかな。議員というのは、リーダーではなく、自分の代わりを選ぶものだろう。もしかしたら、国家は国民にもっと自分で考えさせるべきなのではないか。それは、社会保障を切り捨てるということではなく、どうすることが国にとって、あるいは国民にとって最良なのかを一人ひとりが判断する立場で国に関与するということである。政府は、むしろ国民に考えさせない策を取ろうとする。それが統治するということかもしれない。

五十代があと半分残っている。六十歳になれば一応社会的責任は果たし終わるのではと五十代の最初のころから、それを目標にしているのだけれど、もしかしたら、同時に五十代というのは、生き方を変えることができる最後の時期なのかもしれないとふと思う。

世の中は、なんらかの形で時折リセットがかかる。それはもしかしたら、結果的には健全なことで、まだ人間も自然の片隅に踏みとどまっている証拠かもしれない。

資本主義社会は、いつも世の中の都合の悪い出来事を共産主義社会のせいにして対象化しようとする。理想はどちらにあるのか。あるいは少なくても理想に向けた努力を続けているのはどちらか。共産主義がうまくいかないのは、人間というものへの失望感からだろうか。失望してしまうから、過度な管理が必要となる。過度な管理は、独裁を生む。共産主義はいけないということになる。共産主義がいけないのではなく、人間というものについての理想と現実のギャップが想定以上に大きいということではないか。

夕方たまたま駅の近くを通ると、家路を急ぐたくさんの人たちはまだほとんどがマスク着用である。既に誰もがその装いに慣れてきているということなのかな。手作りマスクが流行っているけれど、その柄入りのフィット感のあるマスクが喋る時にまるで生き物のように動く様が少し気持ち悪く感じるのは僕だけなのだろうか。

何もしないことの快適さを知ってしまった気がする。もしかしたら、何もしないことが、一番の愉楽ではないか。要するに様々な形での「達成感」という麻薬に頼らない生き方ということである。

古関裕而を扱った歴史バラエティ番組で映し出された彼の撮った陥落した上海の廃墟のような町の様子を見ながら、そう言えば、米軍の空襲によって焼けてしまった日本の町の映像を繰り返し見ているけれど、日本がアジア諸国で行った攻撃とその結果の様子を目にすることはほとんどない。私たちは歴史上の私たち自身の「悪意」を見ることはないのである。太平洋戦争に至るまでの日本のアジアへの侵攻は、欧米列強の支配からアジアを開放するという大義名分が用いられ、不思議なことに今に至ってそれは再び正論となっている。しかし、もう一方では、欧米に習った帝国主義による侵略とも言われる。このどちらが本当なのか。私たちは個としてそれを判断する情報をあまりにも与えられていない。歴史とはいつもそういうものなのではないか。要するに、歴史は集団幻想なのである。

雨に濡れると何だかこの世界の一部である自分を実感できるようで気持ちいい。雨に濡れて困るのは、他人と会うときだろうか。そこにも世間の存在があって、それは世界と同調しようとする気持ちを時に妨げてしまう。私たちはもっと自由に生きられるのかもしれない。誰もがそのことを大切なことであると考えるようになるならば。

「もうこれ以上一歩も歩けない」という。けれど、その時でさえ次の一歩を踏み出すことぐらいはできるだろう。山道を歩いていると「もう登れない」と思う。でもよほど空気の薄い高地でもなければ、そこでじっとしていることぐらいはできる。そのじっとしている状態に限りなく近い速度で登ればやがては頂上に着くはずだ。これは、人生のメタファーではない。論理的、生理的事実である。

佐野元春は僕たちにキラキラとした「未来」があることを教えてくれた。

もしかしたら、「世間」は、保守政党にとって、強力で都合の良い支持母体なのではないか。世間体を気にする私たちは、思想でも政策でもなく、世間に従う形で保守政党を支持する。日本人にとって、世間と国家は同義語である。愛国心の正体は、世間体なのかもしれない。

新しいスピーカーを手に入れると「ひこうき雲」を聴きたくなる。

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2020.06.08

相対的剥奪感

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わからないままに死にたくないと思うことがいくつかある。でもきっと、そういうことはわからないままなのだ。忘れるしかない。いやそういうことは忘れてしまうのだ。時間を測るのは時計ではない。時計は時間があたかも流れるものであるように見せる道具に過ぎない。いや「時間」という言葉がすでにそうなのだ。

戦争において、単純に考えるなら先方から順に剣を交えるならば、数の多い方が残り、結果大将は勝利できるということである。民主主義においては、多数の方の意見によって全体の方向を決める。これは多い方の意見を採った方が自分の意思を通せる人が多くなるという理屈なのか、あるいは多い方の意見が正しい可能性が高いということなのか、どちらだろう。どちらにしても、民主主義は、独立して考える「個」による議論によって進むべき道を選ぶという前提がなくてはいけない。

近ごろ現代音楽を聴くと心地よく感じるようになった。

現代社会における一番の深刻な問題は、「他者に向けられる厳しさ」ではないか。これは同時に自己を歪んだ肯定と不寛容の狭間に落とし込む。この問題は、社会における人間の存在を二十世紀後半の公害問題と同じくらいに危うくしている。

日曜日、奈良写美で石川直樹のエベレストを見てから、滝坂の道を登って春日原生林を歩き、春日大社へと降りた。誰にとっても生きることは大変で、その感覚はその人生の質によって違うのではなく、みんな同じなのではないかなと思う。なぜ山に登るのかという問いはあっても、なぜ生きるのかという問いはない。それはすでに「生きかけている」からということだろうか。今さらそんなことを問われても、答えられるはずがないということになる。せめて問うなら「なぜ死ぬのか」にして欲しい。

おやすみ明けの月曜日、珍しいお客さんが三人もあった。少なくてもその三人はこの環境下、僕のことを頭に浮かべて下さっといということで、ありがたいことである。

「死ぬときが近づくほど、世界は美しく見える」と韓国ドラマのセリフ。

一年とか二年とか、そういう時間はあっという間に過ぎていく。そう、五年手帳を見返して思う。五年手帳のように、毎年の同じ日が同じページに表示されるブログがあればいいなあ。五年手帳は六年目以降どうするのかな。

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2020.06.06

ここではないどこか、どこでもないどこか、どこでもないここ

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人生は、重い荷を背負い、動かなくなった足を引きずり、昨日のことも忘れてしまうようになり、それでもなおも残されたもので、遠い道のりを行こうとするものなのかな。

生きていくことは辛いもののようでもあるし、簡単なものであるようでもある。一つ、振り返ってみれば、大きな転機であったと思う時期がある。高校三年の時、なるほどこんなふうにすれば生きていくことは簡単かもしれないと思ったことがある。しかし、ぼくはその方向を選ばず、違った方に向かって歩き出した。今までの人生で後悔することがあるとすれば、そのすべてはその時に起源がある。結果悩み多き人生になったわけであるが、それも運命なのだろう。運命とは、弱さに宿るものというか、運命に押し曲げられることが弱さだろうか。もっと厳しく言えば、運命は弱き者の言い訳なのだろう。運命に逆らうだけの確信はそう簡単に持つことのできないものであるけれど、それこそが意志である。要するに、意志を獲得することは容易ではない。本来ならば、教育は意志を育むことに重きを置くべきであるが、この国ではそうはなっていない。よって早熟な人だけが、意志を獲得することができる。五十を過ぎてやっと意志に気づくといいのもどんなものだろう。

「私」と「自分」がいかに一致しているか。それが人間の幸福の基礎であり、その重像をどれほど「自己」として確信できるのか、が強度となる。

九十年代以降のユーミンはコマーシャリズムと密接につながったところにいたことで、それまでの彼女とは別物と考えてしまう。でも、ラジオから流れる「Hello, my friend 」の歌詞に耳を傾けると、やっぱりそこには、ユーミンの世界があって、彼女の歌詞に共通するように思える「過去と未来とそれに現在の私」を行き来しながらそのそばを流れていく景色を眺めているような感覚を抱く。

悲しくて悲しくて君のこと想うよ

もう二度と会えなくても友達と呼ばせて

非常事態宣言が解除されれば、なんだか全てが元通りになるような気でいたけれど、今でもマスクをしないといけない気がするし、電車に乗ったり、レストランに入るのはどうかなあと思ってしまう。旅行の計画を立てるのも今ひとつ気が進まないし、家でテレビを見ているのも楽でいいなあと思う。衣類を買おうとしても、目的がないから別にいらないということになる。なんだか変な感じは続いているということかな。銀行の担当の人から0%の融資をぜひ使って欲しいと連絡がある、きっとここに来て駆け込みのノルマがあるのではないか。政府は極限なくあらゆる形で企業と国民に資金を供給し、消費の復元を急ぐ。まさにバブルである。世界中の金融緩和で行き場を失った資金は最悪の決算を連発する株を押し上げ、将来を先食いしていく。これは、アベノミクスバブルの終わりの打ち上げ花火なのか。それとも、ウイルスバブルの始まりの導火線なのか。もし、安倍政権が、この経済本位的社会を実現したのと同じほどの「英知」を持って、お金などなくても幸せになれるという価値を啓蒙していたなら、本当に「美しい国」は実現されていたかもしれないと言えば、皮肉になるだろうか。世界は狂っている。ウイルスはその狂気を一気に増幅させた。まるで人間が自ら破滅することを促すように。

アサギマダラって、この山に囲まれた奈良盆地にもくる可能性があるのだろうか。それとも、海沿いを飛ぶものなのかな。フジバカマを駐車場に植えてみようかな。

暑い時は耐えられる範囲で一番暑い環境、寒い時も耐えられる範囲で一番寒い環境、それが心地いい。二月に痛めた右肩がここに来てだいぶましになったかな。この分だと冬になる頃には元に戻るかな。

人は自分の中にある問題にぶつかると、その原因を探そうとする。時間を遡り、どこで間違ったのか、何がその間違いを生じさせたのかと考える。そして、つい自分に都合の良い結論に至る。

遺憾とか、断腸とか、哀悼とか、感情を示す時に、安易にそういう熟語を用いるのはいかがなものか。

森の中で苔生した切り株に腰掛けてお昼を食べようと地面を見ると、まるで地面が動いているように思えるほどたくさんの虫たちが忙しなく動き回っていることに気がつく。こんなふうにこの世界はできているのかと驚くのだけれど、雑誌にこぼしたジャムをめがけて、どこから入ったのかアリが壁づたいにそこを行き交っている。家の中も森も同じことである。私たちもまた領域を争わなくてはいけないのだけれど、なんらかの共存がそこにはあってもいいような気がして、それを眺めながらちょっと身体中が痒いような感覚の中、お昼のシラスかけご飯を食べてみる。アリも僕も、生きることの大変さは、きっと共有できるのではないか。

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2020.06.03

幸せな人

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近頃、言ってはいけないことを口走ってしまいそうになる自分が怖くてしかたがない。それだけ世の中が見えてしまっているのかもしれないし、開きなおってしまっているだけかもしれない。だからできるだけどこでも小さくなって黙っていようと思う。自分に自信が無ければないほど、そういうことにはならないから、それでいいと思う。とにかく結果的に他人に迷惑をかけたり、不快にしないようにとだけ願っている。

老後という年齢ではまだないけれど、この辺りの年齢を心豊かに過ごすためにはどうしたらいいのだろう。

WOWOWで毎日一話ずつ放送している韓国ドラマを二つ見るとひと晩の時間が終わる。なんだか時間の使い方としてもったいない気もするけれど、韓国ドラマには見ずにはいられない魅力がある。マニアというレベルのおばさまたちは、様々な放送局でやっているドラマを見ているから朝から晩まで見ている人も少なくないらしい。時間が足りなくて早送りで見ている人もいるとのこと。韓国ドラマを見ていると、日本のドラマが妙に説教くさく感じたり、道徳的に感じたりする。このあたりは、何を大切であると思うのかの国民性の違いが、視聴率を気にするドラマ制作で顕著に表れるのではないかと思う。韓国のリアリティは感情のリアリティであり、日本のリアリティは設定のリアリティなのではないか。例えば、日本でいえば、山口百恵の「赤いシリーズ」のような、赤ちゃんの取り違えとか、不治の病とか、そういうものが韓国ドラマにはいまだによく出てくる。でも、そのことをあまり重要視はしない。その結果生じる人々の感情にこそ、リアリティを求めるという具合である。形の文化と恨の文化の差なのかな。全体を大切にする考え方と個の存在から考え始めることの違いとも言える。韓国では主体があくまでも個にあると考えられる。このことが、同じように民主主義をアメリカから与えられながら、違った進歩をしたもとになっているとも考えられる。韓国の時代劇には、封建社会の賛美はあまり見られない。それを否定し、時代背景を無視してでも民主主義の大切さを表現しようとする。日本の時代劇は、その点であまりにも時代考証にとらわれ、結果としてその時代の社会体制を肯定してしまうことになっているのではないか。

ボーッとした人がボーッとしたままでもそれなりに人生を終えることができる社会、純粋な人が他人を恨むことなく純粋なままでいられる社会、それが真に豊かな社会ではないか。

写真の十字架は、何年か前にソウルでもらったものだけれど、リフォームの模様替えの進行中で、たまたまいつも目にするところに置いておいたらとても愛おしく感じるようになった。十字架には究極の物語がある。その物語が他の図形とは異なる絶対的な意味を与えている。そしてそのことがまた無数の新しい物語を育む。

昨晩穏やかで幸せな夢を見た。考えてみれば、現実の幸せと幸せな夢は、同じ価値を持つのかもしれない。昨日少しいいことをしたからいい夢を見たのかな。田に水が入ると、カエルが鳴き始める。私たちも少しは他の生物と共存できているのかなと感じる。

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2020.06.02

intermission

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このブログを書いていると、勝手に書式が変わって文字が大きくなったり小さくなったりすることがある。気づいたときには修正しているけれど、文字の大きさに意図はありません。それから、最近はほとんどスマホで書いているけれど、どうしてもミスが多くなる。見直しをすればいいだけのことなのだけれど、見直しは、学生時代のテストの時からしない主義である(そんな主義はなく、めんどくさいだけかな)。

近頃たこ焼きを好んで食べている。それも、たこ焼き屋のものより、スーパーの惣菜売り場のものが好き。工夫がないところがいい。世の中にはそれなりのお金を出せば、感心するほど美味しいものもある。でも、そういうものが頭に浮かばなければ、このたこ焼きもとても美味しい。それを幸福と言うべきなのかどうか。それはとても難しいことである。世界は知っていることでできている。「無知の知」は、社会的な存在としては重要なことであるが、この世界に存在する個としては必要ないものかもしれない。そこでは「どのように生きるのか」が関わってくるのかもしれない。知っていることでできた世界が本質的な世界とも言える。知っていることでできた世界の外側に広がるものが無知の領域のようにぼくはここでイメージしているけれど、そうなのだろうか。現実的には、知っている世界の中に大きな空間として存在するのが無知なのかもしれない。よってその空間の存在を肯定することが無知の知となり、それによって、世界は密度を高めるように思える。しかし、知らないことはないも同然であり、それを認めることは、世界を空虚にするとも考えられる。知っていることでできた世界の住人であろうと思われる人がたくましく思えるのはそのせいではないか。その人には「空」がないのである。

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2020.05.31

「分からない」という生き方

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ぼくは他の人より、無駄に過ごした時間をたくさん人生の中に持っているなあと、コンタクトを入れていないぼやけた視界に映る壁に貼った山の絵を眺めながら思う。朝から何も食べていないけれど、空腹を感じない。

SNSは、何かをした、どこかに行った、誰かに会ったということで満たされている。でも、日常の中の多くの時間は、何もしていない、どこにも行かない、一人でいるわけで、いかに何もしていないかを発信したくなるのは天邪鬼のせいかな。

人生の中で、何もしないという余白こそは、真に美しく、大切なものに思えてくる。

迷った挙句、してよかった、来てよかった、会ってよかった、と結果思うことがよくある。

武力行使も選択肢の一つであると考える人がいる限り戦争は起こる。そして、私たちの誰にも好戦的な意識がある。私たちは、私たちを縛り続けなくてはいけない。

ひとつのことをどうでもいいと思い出すと、すべてがどうでもいいような気がしてくる。それは当然で、本来すべてのことはどうでもいいのである。そのどうでもいいことを社会の仕組みや自分を律することでどうでもよくはないことにしているに過ぎない。このどうでもよくはないことにしている仕組みもまた、周到に作り上げられた搾取の方法なのかもしれない。

アメリカでは、黒人に対する差別への反抗がまた高まっている。差別への反抗は、差別によって搾取されたものと同じだけのものを取り返すまでは終わらないものなのではないか。差別した側は、そこに様々な理由をつけたり現状を非難して、得たものを返すことを拒もうとするわけであるが、その姿勢こそは、差別を半永久のものにし、社会に妥協と諦めを促す。差別の解消に必要なものは、不当に得たものすべてを「返還」することである。それを一気に行おうとすることを革命といい、長い時間をかけてすることを民主主義という。そして、それをうまくごまかそうとする態度を保守というのかもしれない。

いろんな税金を払ったら、十万円もらう正当性を感じた。やっぱり給付ではなく、減税とかそういう形にするべきではないのかな。それが正しい民主主義の再分配でしょう。政府があたかも国民に恵んでいるような方法は封建的である。

身体が重いのか、心が重いのか。でもまあ、今までの人生の中で、そのどちらも跳ねるように軽かったことなんてほんのわずかな期間かな。小学生の時には小学生の悩みがあったし、思春期にも社会に出てからも、いつもそれなりの悩みがあり、身体も心も重かったのだろう。まだ今は、この先がだいぶ見えて来た分、楽なのではないのかな。どこまで続くのか分からない未来を思っていた頃に比べれば、何とかなりそうな未来になったのかもしれない。漠然と六十歳までは何とかしようと思うのだけれど、これから一年が過ぎ、二年が過ぎれば、あと三年となる。あと三年ともなれば、本当に先は見えてくるようなものである。

「麒麟がくる」を見ていて、家康のお母さんの役の人があまりに美しくてびっくりした。調べてみると、松本若菜という人らしい。きっと見ていた人はみんな思ったのではないか。あと織田信長の役の人がいい。近頃の若い俳優は名前がわからないけれど。

 

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2020.05.30

巡礼

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巡礼路を歩くことに憧れる。もちろん日本にもいくつもの道がある。身近にだって、奥がけ道や熊野古道などがあるのだけれど、なんとなくヨーロッパの道に憧れる。巡礼というのは、きっと歩く人にとっての「居場所」なのだろう。だから身近では、その居場所にならないということなのかな。

従うことを楽しむという考え方はあるかもしれない。些細なことならそれでいいとも言える。自嘲的に、あるいは自虐的にその境遇を楽しむ。そうすれば意志の崩壊は防ぐことができる。でもその姿勢は、心理学的にはなんとかいうやつじゃなかったかな。

大切なことは、自民党に代わる政党はない、安倍政権に代わるリーダーはいないといういつの間にか蔓延した錯覚を払拭することかな。民主党政権は酷かった、立憲ではダメ、石破さんや岸田さんでは役不足。なぜそう思うのだろう。民主主義においては、絶対的なリーダーは否定されるべきなのではないか。誰がなってもそんなに変わらないという状態こそ、民主主義の健全性なのかもしれない。「安倍さんのいうことは全部嘘」という批判の仕方もなんだかうまくかわされてしまうのは、その嘘の世界が構造物のように出来上がっているからで、私たち誰もがそこを住処にしてしまっているからかな。要するに共犯だから、その構造物が崩壊するまで嘘は真実になる。そう考えるなら、私たちの住処としての嘘の世界ごと壊さなくては、何も変わらない。それを恐れるから、政権は維持される。誰が考えているのかわからないけれど、見事な仕組みというほかない。

少し前の世の中にはまだ余白が残されていたのかな。それとも今もそれはあるのだろうけど、私たちの心に余白がなくなってしまったのかな。

樋をなおすと雨が降って欲しいなと思う。スピーカーを買うと昔好きだった曲が聴きたくなる。詩集を読むと詩が書ける気がする。例えば、リアルタイムで「悲しいほどお天気」を発売日に買ってターンテーブルにのせるときの気持ちってどんなだったのだろう。僕にとってそんなふうにして聴いたレコードって何だったかな。

五月が終わる。六月、七月、八月、九月、十月、そして十一月。半年もある、十二月までは。まるでそれは、次の冬までの巡礼の道のような気がする。いやそう思えば、日々はどれも美しい。今週末は、スキーができる最後のチャンスである。迷っているの行く理由を探しているのか、行かない理由を探しているのか。

テレワークでも結構いけるんじゃないという共通認識ができつつある。それはまあ当然で、もともと不要不急な業務で溢れているのが日本の企業である。ただ、企業側はこれを機にテレワークに移行することで不要なコストの削減ができるのであるけれど、同時にバブル崩壊を境にして増え始め今では一般化した非正規と同じに、働く側からすれば、不利になってしまうのではないか。新しい働き方を推進しようとするならば、よく言われる「ものづくり」の美化やコミュニティ至上主義を捨てるべきであると思う。

医療関係者への感謝を表すということが様々に行われているけれど、そこに含まれるのかどうか、介護の仕事もリスクは大きいだろう。それに、次々に出てくる施策を具体的に実行に移し、市民の問い合わせに対応する行政職員も部署によっては業務量が増大しているのではないか。他にもやってられないと思う職業に人がたくさんいるのではないか。学校の先生だってなんだかわからない状況が続いて責任だけは押し付けられ不安であろう。

スキーに行くこと、ソウルに行くこと、それ以外に目的地がない。目的地がないから、何もしない、何もしなくても時は過ぎていく。時が過ぎていくというよりも、心身に死は満たされていく。私は、少しずつ死が注ぎ込まれる器のようなものだ。きっと既に七、八割がたそれは満たされ、あっぷあっぷし始めている。蕎麦を湯がこうかと冷蔵庫から取り出し、鍋に水を入れては何度もやめにする。「やっぱりスキーに行こうかな」と思ったり、何となく、自己と他者を感じる。机の上の本は開かれず、ページは進まない。きっと明日の朝には後悔しているだろう。タイムリミットを過ぎてはじめて答えは見つかる。後悔は、何処かに安堵を含んでいる。出来なかったことでできている自分を愛撫しながら、時は降り積もる。私を消し去るその日まで。

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2020.05.28

世の中はいつも皮肉なかたちで変化する

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もしかしたら、「詩的に生きる」ということが困難な時代であるから、人々の心を打つような詩が生まれないのかもしれない。詩ほどに誠実で、詩ほどに痛々しく、詩ほどに丁寧に生きる。言葉に置き換えられるほど一つひとつの行いが確かに心とつながりをもって為されているか。あるいはその行為が、静寂の空気の中で自らをも驚かせるほどの響きを持ち得るのか。詩は、表現の中で唯一、物語を断ち切ったところで成立するものなのではないか。ページの上に置かれた言葉だけがまるで墓標に刻まれた言葉のように時を越えていく。指で触れれば凸凹を感じ取れるのではないかと思える文字の連なり。擦ってみれば匂いが蘇りそうで、トントンと本の尻を机に落とせば、ページの隙間から景色がこぼれ落ちるかもしれない。

目的が失われた世界では、何も必要なくなる。私たちは、目的地があって生きているのだと改めて実感する。繰り返される日常がどこまでも続いているのではなく、「その場所」に向かうために目の前には常にはじめての道があり、その周りには新しい景色が広がっている。恐れることも仕方がない、目を瞑ってでも前に進まなくては。

思った以上に世の中は急速に元どおりになるのかもしれない。ただ気持ちがそれになかなかついていかない。

「戦前・戦後」その言葉を私たちはまるで日本におけるB.C.、A.C.のように考え、用いている。それほどに戦争の前後では、価値も秩序も仕組みも、ありとあらゆるものが入れ替わった。私たちが認識する「日本」という国の歴史は、そこから始まったと言っても過言ではないのかもしれない。戦前の否定こそは、戦後の日本という国、日本人をかろうじて生かしたのである。そういう意味で、私たちはいつまでも戦後を生きなくてはいけない。

人生は自分のために生きるにはあまりに辛いものである。だから人は誰かのために生きようとする。

どのように育て、教育すれば、大人になったときにどうなるということには無数のサンプルがあるはずなのに、それが体系化されることがないのは、子供たちがみんなそれぞれに個性を持っているからだろうか。すべての可能性の中から、自分に最も適した選択肢を選び、それを実行する力をつけること。同志社の体育会は、その運営の多くの部分が指導者ではなく学生に委ねられている。平尾をリーダーにしたラグビー部が有名であるけれど、今から思えば他のクラブもそうだったかもしれない。だから結果的にタレントはいても常勝を続けるチームがない。考えてみれば、大学生にもなって、厳しい指導者のもとで勝っても仕方がないだろう。そのことが社会に出てから役に立つなんてありきたりなことを言うつもりはないが、人生にとって何より大切なことは、悩むことと選ぶことではないか。その両方を他者に委ね、ただ体を動かせているだけではどうにもならない。

問題は、コロナウイルスによる肺炎を奇病のような扱いをしたことなのではないか。そのことによって、医療や介護の現場が苦しむことになり、人々も初期症状を隠そうとしたり、必要以上の自粛による経済の悪化が生じることになったのではないか。ぼくは一貫して不思議で仕方がない。たとえ、直接的な治療ができないにしても、感染のリスクが広がるにしても、医療崩壊を過度に恐れるよりも、医療現場も一般の国民も、みんなで目の前の生命の危機に向き合うべきなのではないか。

高校の時、校舎の廊下を歩いていて突然すれ違った同級生に殴りかかられ喧嘩になったことがある。同級生と言っても、話したこともなく、名前もはっきりと知らない人だった。喧嘩している間もその理由を問うわけでもなく、ただ黙って取っ組み合っていた。その後も彼と話すことはなかったし、その喧嘩が後を引くこともなかった。ただ、どうも共通の友達がいて、彼はぼくのことをなにか知っていたのかもしれない。きっと彼はぼくのいい加減なところが気に障っていたのだろう。話すことはないけれど、学校の中で彼を見かけることはそれからもあった。凛々しく真面目そうで誠実な人のように見える彼の姿をぼくはなぜか、自己嫌悪をともなって遠くから見ていた。彼はぼくにはないものをいくつも備えているように思えた。今になって思い返せば、殴りかかってくれた彼に感謝したい気持ちだ。彼はぼくに覚醒と思い出をくれたのだから。

ふと思った。これからは、世の中全体がクリーンルームになるのだろうか。あのSFのような格好をして一日中仕事をする環境がぼくは大嫌いだ。そんなことしなくてはいけないなら結構ですという感じである。

韓国に行けないとしたら、対馬かな。対馬は、日本よりも韓国にずっと近い。対馬には「日本ではこここしか見られない」という生態系がたくさんあるらしい。なるほどそういうことなのだろう。

「強いリーダーシップ」というものが、いつの頃からか世の中でもてはやされるようになった。そんなものが民主主義に必要なのだろうかと僕は思う。強いリーダーを求めるのは、人々が考えることに疲れてしまったときではないか。それではいけないのである。みんなで思い悩むことこそが民主主義の可能性である。そうしているうちはなかなか前に進めないのだけれど、大きく道を踏み外すこともない。

もしコロナ騒動が起きていなかったら。オリンピックに盛り上がり、インバウンド需要はマックスになっていたのかもしれない。日本の場合は、そことの差異であり、プラス部分とマイナス部分を足したものが、経済的影響となる。しかも、消費税増税影響がひと段落し、一年のうちでも観光需要、それに伴うアパレルなどの需要が高まる時であった。さてどれくらいこれからリバウンドがあるだろうか。夏休みの家族旅行の計画を立てるにも、夏休みがはっきりわからないし、宿泊施設のキャパシティには限界があるわけで今度は予約が取れないという状況になるかもしれない。そんなこんなで、この夏はまた違った形での混乱が生じて、それはそれで大変なことになるのではないか。そういう時こそ、穏やかに過ごそうとする人が賢いのかな。日本人は本当に利に聡いわけで、すでに「コロナ後」の新しい生活スタイルを示すような言葉が飛び交い、その需要に向けた戦略が溢れ出している。さてどんなドタバタ劇になるのやら。

世の中はいつも皮肉なかたちで変化する。さてそこで何をすればいいんだろう。

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