different world
どうして少数民族の人が住んでいるところって、山岳地帯や辺境なんだろう。誰だって、平地で水の便が良くって、災害が少なく穏やかな気候のところに住みたいはずなのに。
字でその人と分かるような字、そんな字を書く人は素敵だ。そういう人には、自分の名前を書いてもらいたいと思ってしまう。
人は、人に会いたい生き物である。それは、きっと鳥たちが空を飛ぶことと同じレベルで。
大量生産のシステムに乗らないもの、それが、これからの活路のうち比較的容易に取り組めるものだろう。でも、それは、大きな経済を支える産業とはならないというジレンマはある。
別世界
すべてのことは、すべての人は、同時並行的に存在し、進行している。そのことに対する、あらためての驚き。延びていく線というよりは、薄切としてそれぞれはある。別世界、それは、全く異なった次元に存在するものではなく、すぐ近くにありながら、決して足を踏み入れることができないところにある。
類語辞典、これがおもしろい。難しい文章を書く人も、そのすべてを自分に内在しているわけでもないのではないかという疑問が前からある。やさしい言葉で話す人も、難しい文章を書く人も、伝えたいことは同じであることが多くあるのではないか。何しろ、この世界から享受するものにそんなに変わりがあるはずがないのだから。
別世界 何かとてもいい響きである。
寒い、気温によって、景色の色は変化する気がする。グレーからライトブルー、そしてホワイトイエローへと変わっていく。奈良盆地に迷い込んだ小さな雪雲が、時折、雪を降らせている。積もる雪は、もっと重い空から降るものだろう。まだ今年は、積もった雪を見ていない。
正しいと信じることを基準にした生き方、それを誠実というのだろうか。僕も、高校ぐらいまではそうしていた気がする。一生をそんな生き方で通す人もいるだろう。僕にとって、本当は羨ましく思う人である。僕は、いつの間にか、「正しい」を見失ってしまった(ここで、正しいと信じることが、「正しい」かどうかなど問題ではない。正しいと信じることが重要である)。折れた矢は、何ものをも貫き通すどころか、飛ぶことさえできない。矢のスピード、矢飛びは、放つ瞬間の弦と馬手の切れ方で決まる。的中は、練習で高めることはできても、矢飛びは、天性の才に依存するように思う。その瞬間の感覚をふと思い出すことがある。これがどうも僕は良くなかった。張りつめたものを解き放つその感覚、それがどうも、誠実さに似ているような気がする。濁りがあってはいけないのである。
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