2012.02.02

different world

Photo


どうして少数民族の人が住んでいるところって、山岳地帯や辺境なんだろう。誰だって、平地で水の便が良くって、災害が少なく穏やかな気候のところに住みたいはずなのに。

字でその人と分かるような字、そんな字を書く人は素敵だ。そういう人には、自分の名前を書いてもらいたいと思ってしまう。

人は、人に会いたい生き物である。それは、きっと鳥たちが空を飛ぶことと同じレベルで。

大量生産のシステムに乗らないもの、それが、これからの活路のうち比較的容易に取り組めるものだろう。でも、それは、大きな経済を支える産業とはならないというジレンマはある。

別世界
すべてのことは、すべての人は、同時並行的に存在し、進行している。そのことに対する、あらためての驚き。延びていく線というよりは、薄切としてそれぞれはある。別世界、それは、全く異なった次元に存在するものではなく、すぐ近くにありながら、決して足を踏み入れることができないところにある。

類語辞典、これがおもしろい。難しい文章を書く人も、そのすべてを自分に内在しているわけでもないのではないかという疑問が前からある。やさしい言葉で話す人も、難しい文章を書く人も、伝えたいことは同じであることが多くあるのではないか。何しろ、この世界から享受するものにそんなに変わりがあるはずがないのだから。

別世界   何かとてもいい響きである。

寒い、気温によって、景色の色は変化する気がする。グレーからライトブルー、そしてホワイトイエローへと変わっていく。奈良盆地に迷い込んだ小さな雪雲が、時折、雪を降らせている。積もる雪は、もっと重い空から降るものだろう。まだ今年は、積もった雪を見ていない。

正しいと信じることを基準にした生き方、それを誠実というのだろうか。僕も、高校ぐらいまではそうしていた気がする。一生をそんな生き方で通す人もいるだろう。僕にとって、本当は羨ましく思う人である。僕は、いつの間にか、「正しい」を見失ってしまった(ここで、正しいと信じることが、「正しい」かどうかなど問題ではない。正しいと信じることが重要である)。折れた矢は、何ものをも貫き通すどころか、飛ぶことさえできない。矢のスピード、矢飛びは、放つ瞬間の弦と馬手の切れ方で決まる。的中は、練習で高めることはできても、矢飛びは、天性の才に依存するように思う。その瞬間の感覚をふと思い出すことがある。これがどうも僕は良くなかった。張りつめたものを解き放つその感覚、それがどうも、誠実さに似ているような気がする。濁りがあってはいけないのである。

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2012.02.01

Eurasia

ヒッピームーブメントって、僕らよりどれくらい上の世代だろう、10年ぐらいかな。考えてみれば、僕らの時代を象徴するような大きな流れというのはなかったのかな。新人類と言われた僕らは、集団的な捉え方を拒んだ世代、言い換えれば、時代と個人が乖離しだした世代ということになるのか。中学から高校の頃、上の世代に強い憧れを持った時期があった。その憧れは、今から思えば、その時代との乖離に起因するのかもしれない。

新宿とか、高円寺とか、吉祥寺とか、三鷹でさえ・・・、そう中央線沿線の街って一度住んでみたかったな。でも、修学院や一乗寺、銀閣寺という白川通沿いもよかった。

石舞台古墳が、今のように整備されてどれくらい経つだろう。僕が子供の頃、いや高校生の頃でもまだ、田畑の真ん中、雑草の中にあった気がする。平城京跡も同じこと、法隆寺も少し前には周囲が雑然としていた。どうして、みんなきれいにしてしまうのだろうか。それでは、形式としての歴史は残るけれど、自分に何らかの形で繋がっている時間としての歴史が消し去られてしまうような気がする。歴史を歴史として先の世代に残していく責任。それはわからないではない。でも、気づかないうちに消え去ってしまうものが歴史とも言えるのではないか。世代を跨ぐときに消えてしまうこと、それはそれでいいのではないか。

何も自分に強いることはないのだと思う。流れの中で、いずれはそれぞれの場所に行き着くものなのではないか。ただし、いつも考えていることは必要だろう。考えていることで、無意識のうちに舵を微調整している。

スクリューキャップのワイン、99円のイワシのトマト煮の缶詰5分でできるスパゲティ、それにマーガリンの塊が入ったバターロール。これが意外といける組み合わせである。

ゆったりめのダッフルコートが欲しい。でも、もうすぐ春。とりあえず、25年ほど前に買ったやつを着てみるかな。イギリス製は、古くならない。なにしろ、それまでに費やされた時間が違う。着物も、韓服だってそれは同じこと。

昼時なのにお客の少ないファミリーレストランにドイツ語の「Waltz For Debby」が流れて、銀の雨が降る窓の向こうを冬空色の傘が通り過ぎていく。傘は、空色が切なくていい。

東京電力と国と国民、この三者には、どんな割合で責任が配分されるべきなのだろうか。いや、この三者は、どんな位置関係にあるものなのだろうか。

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2012.01.31

青春Ⅱ

「自分のすべてを燃やし尽くす」 石岡映子
燃やすものは何だろう。エネルギーなのか、情熱なのか、それとも心か。
それはやがて尽きるものか、それとも尽きないものか。

「向き合ってしまいたくない。
 先延ばしにしたい。
 いくらか夢を残しておきたい。」  ドラマ「キルトの家」より

軽薄・・・日本人を表す言葉として適切なのか、そうでないのか。

人の一生は、青春のためにある。たとえそれを通り過ぎてしまったとしても、青春を思い、肯定し、まるで古いノートの文字を指でなぞるように、長い年月を費やす。それは、懐古的なことではない、まさにそれ自体が生きることである。

この冬は、日本海側の雪が例年に比べて多いようだ。子供の頃、夜空から落ちてくる雪を冷え込んだ家の縁から眺めながら、翌朝の白い景色を想像した。多くの場合、それは裏切られ、深緑色に淀んだ堀に張る氷を石を投げて割ながら、奈良って詰まらないところだなあと思った。全国のニュースを見ていると、その地域に住む旧友や知人の顔を思い浮かべることがある。そのことは、人生の素敵さのひとつであると思う。どうぞ、雪国に住む皆さん、運転や作業に気をつけて下さいね。


80年代って、時代としてロマンチックだった気がするのは、その頃、僕が若かったからだけではない気がする。戦後の復興からバブルの崩壊以前に至る中で、今から思えばチープな文化だった気もするけど、経済だけではなくって、暮らしも人々の感情もひとつのピークを迎えた時と言えるのではないのかな。

*
1ヶ月、続いた  ふぅ。

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2012.01.30

Hard fact

Photo

その人は、建て替えられたばかりのJR奈良駅の中央口を出ると、広場の向こうの低い街並み越しに見える若草山の黒い山肌をしばらく眺めた。彼女の背には、ひと月分の荷物と両肩に食い込む思いが背負われていた。広場の隅では、数人の法被姿の若者が、独特の拍子の経を唱えている。信号待ちで、その小気味良いリズムを聞きながら、彼女は、二十年あまり前、当時、この近くの女子大に通っていた友人を訪ねた時のことを思い出していた。考えてみれば、奈良を訪れるときはいつも重い荷物を背負っている。信号が青になり、消えかけの横断歩道の白線を一本、二本と踏みながら、「私は、ここに何かを捨てて帰らなければいけない。」と彼女は思った。

青年は、近鉄奈良駅のエスカレーターを上がると、ゆるい登り勾配のついた道路の先に山頂を少しだけ出した山を見上げながら、小さく息を吐いた。取引先には、そこから歩いて15分ほどの距離であるが、今日に限って、どうも足が進まない。駅前から続くアーケードを歩きながら、大きな三笠まんじゅうに目をとめ、意味もなく、それを見つめてみたりする。彼は、奈良という町があまり好きにはなれなかった。とらえ所のない人々の態度に、いつもはぐらかされてしまうからである。気の乗らないまま入ったコーヒーショップで、いつもは頼むことのないカフェモカを頼み、奥の小さな喫煙スペースに腰掛けて薄っぺらなスマートフォンの起動スイッチを押した。


***

当たり前の認識として、僕たちは、自衛隊という軍隊に守られて暮らしている。自衛隊がなければ、脅威に直面するのかどうかはわからない。
「ケンカをしてはいけません。」それも当たり前のこととして、子供の頃に叱られた。
ケンカはしてはいけないものだけれど、ケンカになることがある。戦争はしてはいけないものだけれど、戦争になることがある。
戦争をしないと決めたのならば、軍隊は要らない。自分はしたくないけど、相手が仕掛けてきたら守らないといけない。確かにそうである。人間はどうして、ケンカをしたり戦争をしたりするのか。
競うということ、スポーツであれ、勉強や企業間の関係であれ、人は競うことを当たり前にしている。
では、競わずに生きることはできないのだろうか。社会主義の理想のある部分は、そこにあったのだろうか。でも、競わないと人間は堕落し、社会全体が衰退する。という結論を20世紀の世界は実証して見せた。ということは、広い意味でのケンカは、人間が生きるのに必要なものということになるのか。
正当性のあるケンカ、戦争は、認められる。何か変な話だけれど、常識として一定の是認が為されている。
スポーツはいけないという人はいないし、受験勉強はやめなさいという人もいない。企業間では、どうぞそちらがたくさん売って下さい、うちは結構ですから。なんていう会社はないし、恋愛についても、競争は生じる。
一時、小学校の運動会などで、手を繋いで一緒にゴールするというようなことへの批判が話題になった。批判をする人の意見は、「社会に出れば、競争原理が働くのだから、そんなことはナンセンスである。」というようなことであったように思う。しかし、「速い人も遅い人も助け合って一緒にゴールする。」というのは、人間が掲げる理想の形なのではないか。現実がどうであるか、ということを教育に折り込む必要があるのだろうか。それは、単に自分たちのしていること、その結果動いている社会に対する追認に過ぎないのではないか。教育とは、今現在の社会システムに子供たちを導き入れる手段ではなく、今実現できていない理想を次の世代に託す手段なのではないか。
私たちは、本能レベルで、悲しいほどに好戦的である。ケンカであれ、本当の戦争であれ、スポーツであれ、競い戦うことに、疲れ果てるまで熱狂する。
要するに、この世界においては、常に「椅子はひとつ少ない」ということなのか。全員分の椅子を用意しようという考え方は、社会主義、資本主義を問わず、繰り返し提起される。しかし、やはりどうしても椅子はひとつ少ないのである。のんびりしている人は、椅子を取れないことになる。
どうしてなんだろうか、それは、外的要因によるものなのか。何か、素朴に不思議に思ったりする。
「現実はそうである。」確かにそうなのだけれど・・・。

本棚って、整理しても整理しても、すぐに入れるところが無くなってしまう。本棚の部屋があればいいのに。それとも、ウォークインクローゼットとどっちがいいかな。

iPhoneのカメラは、4から4Sで相当よくなってる気がする。これ以上のカメラは必要ないかも。

年をとることのいい面のひとつとして、静への関心がある。動かないもの、美術品や庭、そんなものにも魅力を感じるようになる。

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2012.01.29

Youth

__


人のことを考えるということは、容易いことではない。何しろ、自分のこともままならないのである。しかし、人のことを考えるだけの余裕というか、幅を持っている人が大人なのだと思う。なかなか大人にはなれないものである。というようなことも、そろそろ言えない歳になったのだけれど。

奇跡というのは、極めて低い確率で起こることを言うのだろうか。そういう意味では、奇跡的な美しさ、才能、優しさを持った人というのはいるのだと思う。そして、時には、それを併せ持つ人が現れる確率も、極めて極めて極めて低い確率で生じることだろう。それとも、奇跡とは、起こりえないことを言うのかな。

地域を世界遺産登録して、観光客を呼び地域の活性化につなげようというのは、世界遺産を目指すひとつの目的として当たり前になっている気がする。しかし、本来世界遺産とはそういうものなのか、また、観光による地域おこしという手法は本当にいいのだろうか。観光というのは、行く側と受ける側では、大きく意味が異なる。受ける側にとっては、自分たちの暮らしの場としての地域を見せ物にして、お金を稼ぐということではないか。もともと、そんな意図で作られた施設ならまだしも、希有な自然環境や古い寺院、建造物など、それらは暮らしの場の延長線上に当たり前に存在してきたものであり、言い換えれば、そこに暮らす人々の精神を構成するものの一部である。そう考えるなら、自分自身を売っているとさえ言えるのではないか。それをどうぞ見に来てください、お金を落として帰ってください、とおおっぴらに言うのは、どうなのだろうか。

1930年代生まれは、価値が180°転換した戦後を生きた。40年代生まれは、その日本の価値の再構築を標榜した。50年代生まれは、その挫折のあとの、言い換えれば、混沌からの飛躍を目の当たりにした。60年代生まれは、初めて整備された世界での安穏の中で過ごした。70年代生まれは、グローバルな世界を意識し始めた。80年代生まれは、自分自身に目を向けた。それぞれの青春が、世代の個性を作っている気がする。

幸福に鈍感で、不幸に敏感・・・であるとすれば、強調しないといけないのは、幸福ということになるのだろうか。

何かが出来るという思いは、それ自体、大切なものである。実際に出来るか出来ないかは別にして、それは、人を生きようとさせるのだから。

戦時下では、人の命は軽くなる。それに従って、自分の命も同じように軽くなる。

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2012.01.28

first shot

Photo

「社会における他者との関わりの中で、他の誰かよりは私に近い。」という消去法の原理によって導き出される結論が、自己と私の同一性を認識する唯一の方法なのかもしれない。

色々考えた結果、現状をスタートとして一番コストメリットがあるのは、4Sに機種変更することかな、ということで白の4Sを購入。折角、あと数ヶ月で2年経つところだったけど、また、これから2年縛り、それだけがちょっとなあ。やっぱり、カメラ機能とiPod機能は捨てがたい。ついでにtwitterでもやろうかな。「神島なう」的な。これまでの写真も自動でバックアップがあったみたいで、無くなったのは、1月20日、iPhoneも落とした日、一日分の記憶。

モラルというものが、社会通念上に規定されるものであるとすれば、「カーネーション」と「最後から二番目の恋」を見ていて、それは少し変わったのかなと感じた。たぶん、僕たちの世代が、ほぼ社会のミッドとなって、表現として出てくるものに、それは反映されてきたのではないか。

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2012.01.27

identity

3


列車の窓から見た景色が素敵で、どうしてもその町に行ってみたくなることがある。そして、あとになって実際にそこを訪れてみると、僕が好きだったのは、いくつもの線になって流れていたあの色彩の帯であったということに気がつく。

寒くなればなるほど、空がきれいな水色のなるのは、高い場所の空気が凍るせいなんだろうか。僕たちは、どんな方法を使ってみても、この世界の色を再現することは難しいかもしれない。この冬空のように透き通った水色。

偶然、近鉄の乗降客数を見ていたら、一番少ないのは、ダントツで大阪線の西青山駅だった。11人/日である。確か、大阪からの急行も停まる駅じゃなかったかなあ。今度一回降りてみよう。

僕たちの世代が「奈良盆地」と習った奈良県北部を、父たちは、大和平野と呼ぶ。


同一性。
私は、私以外の何ものでもないはずである。
しかし、私が私である確証はどうして生まれるのか。
身体と心、脳だけの生き物。
他者の存在は浮游する心の点在。
指を折り曲げてグーを作る。
身体の必要性。
例えば、作家は、ただ書き記すためにだけ身体を必要とする。
スポーツと舞踏の大きな違いは、反応と表出である。
身体は、inputとoutputの装置である。
私たちは、もっと心を見なければいけない。
同一性とは、
身体と心においてのことなのか、
この世界における存在としての私と心のことなのか、
それとも、主体としての自己と心のことなのか。
私という最も近しい存在を認識するためには、極めて特殊な装置が必要となる。
しかし、それは使用法を誤れば、自爆のスイッチにもなりかねない。
灯台は、いくら光量を上げたところで、自らの白い身を照らすことはできない。
私、自己、自身、心、脳、身体。
私は、四次元的にいくつにも分断される集合体なのか。
私は、私を何をもって私と認識しているのか。
脳からの伝達によって、身体の各機能が働くこと、
そこに、私は直接関与していないように思える。
私にとって、この世界が、唯一自己を認識する装置なのか。

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2012.01.26

generalized scene


この曲のメロディ、どうしてこんなに心地いいんだろう。

どんな状況であろうと、自分のことは最初に自分が引き受けるしかない。この世界は、総体として捉えるよりも、その一部との関わりにおいて、存在している。


もう諦めた。きっと、どこかの道ばたの植え込みの中にでも落ちてるんだろう。4Sに機種変更すると思えばいいかな。今度は、ホワイトにしようかな。コンパクトデジカメ買うより、iPhoneの方がいい気がする。

ものにこだわるというのは、私たちにとって大きなロスなのではないか。それに、肉体、自分の肉体、他者の肉体、もそうである。なぜ私たちは、それにこだわり、目的にしてしまうのか、それは、形があるからではないか。形なきもの、不可視なものを認識することは難しい。それは、二次的な思考によって初めて可能になる。よって、はじめに私たちは、形あるものを目的とするのである。では、大切なものはどちらかと言えば、これも二次的思考によって炙り出されることに過ぎないのだけれど、形のないものということになるのかもしれない。山と海と風、それら三つは、等価に列べることができるものであるのかどうか。僕とあなたと、そこに吹く風、それは等価と言えるだろうか。愛するということも、一義的には、物質的なものであると思う。しかし、そこに価値を与えるのは、私たち自身の思考である。その価値の創造こそが、すなわち鳥達が空を飛ぶことであり、魚たちが水の中を泳ぎ回ることと同じ私たちの特性ではないか。そう考えるならば、無形の神の存在も、人間の大きな価値の創造のひとつである。

「終わり」の後に来るものは何だろう。
まあ、考えてみれば、ヨーロッパなんて何度も終わっているわけで、日本だって、今までにも終わったことはある。「終わり」というのは、最後とは違うことだろう。終わることを怖れるよりも、そのあとに来るものを待とう。

時が、人と人を分かつというよりは、それぞれに積み重なる経験が異質感を作る。時を遡る努力よりも、経験を共にする、または、経験を伝え合うことで、時を越えて繋ぐことはできるのではないか。

過去という泉から命の水をすくい上げ、私は、今日という荒野を歩く糧とする。未来という幻は、現れては消えてゆくけれど、私の向かうところはそこではない。あなた(彼方)への地図は、いつも、私の手許にある。

一般化された景色、共有される景色、概念としてではなく、一般化された景色。

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2012.01.25

my way

1

いったい、今までにここでどれくらいの写真が撮られただろう。それでも、この橋を渡るたび、下流に向けてカメラを構える。加茂の流れは、まるで僕の中の時間の流れ、記憶の流れのように思えて、少し曲がりながら空と一緒になって見えなくなるところをじっと見つめてしまう。


***
K駅の前にはタクシーはなかった。終電の時間を遠に過ぎていたのだからしかたがない。コートのポケットあたりに触れると、あるはずの脹らみを感じられず、そこに入れたはずのマフラーと手袋をどこかに忘れてきたことに気がつく。ロータリーの向こうに真っ直ぐに伸びる道路が、街灯に照らされて明るく見えた。この近くに住んでいた高校の友人の名前を思い出し、小さく呟いてみる。その声は、繰り返すたびに大きくなって、それが自分の耳に戻ってくる感覚が気持ちいい。たぶん、脳の働きは半分くらいに落ちているだろう。道路に出ると、僕は、三つほど先のY駅を目指して歩き始めた。出来ることといえばそれくらいで、静まりかえった町には、僕しかいなかった。小雨は僅かにコートを濡らしたけれど、歩くことを妨げるまでには降らなかった。その道沿いには、24時間営業のコンビニもあったはずだけれど、その灯りは覚えていない。ふと時計を見ると、3時を過ぎた頃で、それ以上はっきりとした時刻を確かめる気にはなれず、ただそのまま歩き続けることだけを思っていた。大きな道を横断することも容易で、走る車を見た覚えもない。その辺りの記憶を今蘇らせることが難しいのである。やっと、高校の頃よく通ったY駅前の商店街にたどり着き、ちょっとだけ安心した記憶だけが残っている。たぶんそこから、始発の電車に乗って最寄りの駅まで帰ったのだろう。記憶と思考は、脳の中で別々の場所がその役割を担っている。だから、僕は、ずっと歩いた。金曜日の夜は、土曜日の朝になっていた。


「外れても 踏み止まっても 人の道
外れてもええやないか、その分苦しんだらええ。 五七五になってるなあ。」
   と「カーネーション」の中で、近藤正臣が言っていた。



外部に歯をむく垂直な骨格をした人間は、生活の断崖に爪を研き、吠えて月は落ちた。  吉田一穂「内部」より  なるほど・・・。


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2012.01.24

242

写真を撮ることは、見ることを促すと同時に、見ることを強いる。僕たちは、無意識のうちに、見るものを取捨選択している、決してすべてを見ているというわけではない。記憶はもっと愚劣で、事実を歪曲してしまう。ただし、事実が真実であるかどうかはわからないし、真実であったとしてもそれが価値のあるものかどうかは、もっとわからない。

酔っぱらうと、目の前の人も世界も、すべてが素敵に見えるのは、脳の部分的麻痺が、肯定的な判断を生じさせるためか、それとも、死が少しだけ近づくためなのか。

神は、この世界の先に在ったものではなく、後に生まれたものである。それどころか、人間よりも後である。それでも、神が何よりも先んじられるのは、この世界に存在する多くのもののように命の限りがないからであり、永遠を感じさせ、また、形という枠を拒否しているからである。私たちはみな、神の存在を信じるほどに愚か者である。

なぜか、見積依頼がたくさんあった。相見積もりかもしれないけれど、それにしてもこのご時世、依頼があるだけありがたいのかもしれない。経済成長率という指標は、経済は成長するという前提にあるのだろうか。国家の疲弊は、封建社会ならば、搾取を強めることで解決される、帝国主義ならば、他国を侵略することで解決しようとする。理想的な民主主義を目指すならば、国民すべてが応分の我慢と負担をせざるを得ないということになる。今後、我が国が、過去のような経済成長を取り戻すことは極めて難しいだろう。その中でもやりようはあるにしても、応分の負担を逃れることはできない。国民一人ひとりが、国家を支えているということを実感する時代が、否が応でもやってくる。誰かが一緒にどこかへ連れて行ってくれるというモデルは、もうあり得ない。負担に耐える暮らしを理想としなければならない。負担をポジティブに受け入れなければならない。そうやって、僕たちの時代の豊かさを創造しなければならない。

雪が降った。この世界のディテイルが少しだけ見難くなって、それがきれいだと思うのは、不思議なことだ。

「4年以内に、約70%」というのは、どんな確率なんだろう。それは、三人でじゃんけんをして、一番負けにはならない確率に近いということ?今日起きる確率は、70%÷1461ということ?今日起きなければ、ほんのわずか、明日以降は、確率が高まるということ?1年以内とすれば、確率はどう変わるんだろう。この確率計算が当たる確率はどれくらいで、その確率を70%に掛けなければいけないということ?確率に対して、僕たちは、どんな対処をするんだろう。

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2012.01.23

これは見つかりそうにないな。

「君が一番幸せだった時を思い出してごらんよ。」
そう言われて、頭に浮かべるものは、みんなそれぞれである。ということは、この問いかけは、最高に幸せな問いかけである。ここで、今が一番というのは粋ではない。

「切ない」という言葉、それ自体に切なさがあるわけではない。

感情を記憶しようとすること。それが難しいから、人は、シンボリックな景色や人によって、それを残そうとする。

人間とは面白いものである。車がちょうど車検で代車になったにもかかわらず、あるはずないのに、その代車の床に落ちてないか探してみたりする。iCloud、設定しておけばよかった。

起こらないときには、何も起こらない。起こるときには、いくつものことが同時に起こる。

仕方ないので、ドコモの携帯をスマートフォンに替えようかとカタログをもらってきたけど、この中から、どれを選べというのか。まだいいなと思うのは、サムソンのか、LGのぐらいかな。スマートフォンってシンプルすぎて、デザイン的にiPhoneとの差別化が難しいという面もあるのかな。「違い」を見せるためには、iPhoneに+するしかない。それが結果として、悪くなってしまう。どうせなら、球体とか、立方体とか、取っ手があるとか、そんなんだったらいいのに。あ、僕なら、フィルムカメラのライカM型にミュージックプレイヤーとWEB閲覧可能な液晶が付いていればいいかも。

「iPhone 落とす」というキーワードでは、色々な記事が引っかかるけど、「iPhone 拾った」というキーワードでは、まともな記事がない。これは、「車をおかまされた(追突された)。」と世間話の中で言う人はよくいるけど、「車をおかました(追突した)。」という話をする人はいないのと同じことかな、どうかな。

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2012.01.22

青に近い

金曜日の深夜、正確には土曜日の未明、iPhone落としたみたい。
Where is my iPhone?
あーあ。

iPhoneを落とすということは、何を無くすことになるのか。iTunesの音楽は、バックアップがある。写真は、途中までしかバックアップがない。電話としては使ってないから、連絡先とかは全然登録してない。ちょっと不安なのは、暗証番号ロック掛かっているけど、カードとかWEBアクセスの暗証番号が入っている。それぐらいかな。まあ、仕方ないか。

試しにiPhoneに電話してみた、繋がるようだ。この世界のどこかには必ずある。でも、どこにあるのかは分からない。そのうち電池もなくなるだろう。そうすれば、あるのかどうか、確認さえできなくなる。

「逆境をチャンスに変える、それが私の生き方よ。」
と2時間ドラマの再放送で、原久美子が言った。

本当の白は、青に近い。

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2012.01.21

大阪市営地下鉄今里筋線を清水駅で下りて、段差が小さくて長い階段を上って地上に着くと、iPhoneの地図で目的地までの経路を確かめた。いつもは、車で行くその取引先に電車で行くのは始めてのこと。こちらであろうと思う方に様々な建物が混在する間を蛇行しながら続く道を十分程歩くと先の方に高架が見えた。その下は、どうやら商店街になっていて、文字を追うと「千林」と書いてある。あれ、そんなはずは・・・。iPhoneを取り出してみると、駅から反対に歩いてきたことに気づく。上が北だと思うじゃないか。それとも反対見てたのかな?仕方なく来た道また戻り、駅を越えて目的地に向かった。小学生が下校している。その先には、宮崎アニメに出てくる城のような斑に黒くなったコンクリートの校舎がそびえている。初めて歩く街の景色の多くは、不思議なものに見える。それはきっと、この世界を肯定的に受け入れようとする人間の本能によるものではないか。国道まで出ると道の脇にその辺りの古い地名とその解説を書いた案内板があった。摂津と河内の国境であったとのこと、現代に至って、様々なものが混在しているのは、そのせいだろうか。

僕は、体質上はアルコールを飲むのに適していない方なのだと思う。久しぶりに深酒した。

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2012.01.20

VOW



1000円のピースが出るらしい。案外、紙巻きたばこでも、こういうプレミアムなものに可能性があるのではないか。JTのサイトを見ようとしてびっくりした。HP見るにも登録が必要なんだ。

ヨーロッパのドラマを見ていると、人々はみんな同じ方を向いている。それは、神の方である。

誓い、そういえば、僕は生まれてこの方、何かを誓ったことがあるだろうか。誓いは、英語でvowと言うらしい。この単純な単語が日本では一般化されていないのは、日本における「誓い」のその先が曖昧だからということかな。

「愛してる?」「ええ。」「なら、見つかる。」

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2012.01.19

deitylike

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例えば、強硬派の反原発団体は正義か。僕には分からない。
考えてみれば、正義というのは、人間が創り出した価値である。自然界においては、正義も悪も存在しない。(僕たちは、どこかで正義とは「存在」するものであると思っているのではないか)よって、人間の中で、正義について言及することはあっても、例えば、ライオンとシマウマのどちらが正義か、なんて考えてもしかたがない。では、せめて人間の中の正義とは、何を拠り所にしているものだろうか。それは、集合としてのこちら側かあちら側かということなのではないか。(多くの場合、多数派が正義となり、時々、声の大きい方が正義となる。)僕は、原発について、しっかりとした知識もなければ、判断も出来ない。だから、どちらが正義なのかも分からない、ということではないのか。

例えば、無差別に暴力を行使するものに、勇敢に立ち向かう人がいたとする。正義の味方である。では、「正義の味方」って何だろう。このひとつの単語として使われている言葉こそ、正義の今日的な概念につながっているのではないか。正義の味方は、正義を持った味方ということなのか、それとも正義の側の味方ということか。

破壊者は悪、とした場合、圧政を敷く暴君の城を破壊しようとするものは悪なのか。それに成功すれば、正義。失敗すれば、悪。というところだろうか。どちらにしても、その暴君の側にとっては悪である。しかし、民衆にとっては、どちらも正義とは言えない。やはり成功すれば正義であるけれど、失敗すれば、断首台に登るその者に多くの民衆は罵声を浴びせることだろう。それは、誰もが常に正義の側にいなければならないと考えるからではないか。この場合の罵声は、その意思の表明である。

人殺しをした人の味方をするのは、家族ぐらいである。家族でさえも味方とはならないこともある。これは、人殺しが、悪であるからだろうか。殺された人が正義であるからだろうか。それとも、自分は、どちらかといえば、殺す側ではなく、殺される側だからではないか。言い方を換えれば、間違っても、私は人殺しをすることはない、まだ、可能性としてあるのは、殺されることである、と思っているからではないのか。戦下の人殺しには、正当性が生じる。時には、それを正義と呼び、「軍神」となることもある。その場合、私たちは、殺す側に図らずも立たされるからではないか。

正義と悪、敵と味方。このふたつの組み合わせに、どれほどの違いがあるだろうか。

法は、正義と悪を規定するものではないと思う。正義と悪を規定するのは、感情である。感情の集合体である。

悪意、という言葉がある。そんなもの本当に持っている人がいるのだろうか。人は、誰も自分の優位性を保とうとするだろう。その時には、様々な方法を行使する。自分の優位を保とうとするわけであるから、相手にとっては、当然、劣位となるわけだ。悪意とは、この方法の中のどれかをいうのだろうか。多分一般的には、道徳的でない、または、法に照らして違反であるということなのかもしれない。であるならば、悪意とは、外的に規定されるものとなる。悪意が、能動的に発せられるものであるとすれば、ここには矛盾が生じるのではないか。よって、悪意など、人には存在しないと結論づけるのは乱暴か。

奥歯が一本折れたことで、食べることに関する不具合以上に、歯並び全体に対する負荷の増加が見られる。人間は、無意識のうちに、高い頻度で歯を食いしばっているのだということをあらためて知る。そういう意味では、このことに限らず、年を取るということは、身体の仕組みを実感し知ることができるという面がある。思ったよりも、まだまだ色んなことを、この世界から、そして自分自身から、発見できるのかもしれない。

雨は、久しぶりな気がする。冬の雨は、北国の雪景色を連想させる。この冬はまだ、積もった雪を見ていない。2月になれば、ほんの僅か、どこかに春の気配が見えるだろう。僕は、それから逃れて雪を見に行きたい。

緑の葉の上に咲く花は、多く際だって見える。人間が品種改良(この場合良を使うのかな)によって、色を変えない限りにおいて、花は皆、緑の上に咲くことを前提に色を染めているのだろう。

amazonのほしいものリストを見ていて、びっくりした。リストのひとつが94%オフで売られている。何かおかしい?
モレスキン バックパック
大阪の文房具店で見ていいなあと思っていたのだけど、ほんまかな。まあ欺されても、送料込みで1600円ぐらいだから、注文してみた。もう一度見たら消されていた。間違いかな。まだ、同じシリーズのトートとかリポーターバッグは同じくらい安い値段で出ている。調べると京都の○○事務機という会社がやっているみたい。まあ、何かの理由で来なかったらしょうがないね。間違いだったら、担当の人かわいそうかな。と思っていたら、ストアからの在庫不足のためのキャンセルメールが届いた。こういうとき、何も損していないのに、損した気分になるのが不思議。

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2012.01.18

立つ花

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駅には、よく生け花が展示されている。例えば、京都駅ならば0番ホームの隅に。伊勢市駅にも室生口大野駅にもあった。駅に展示されている花は、すでにそれを生けた人の思いや流派の作法を離れて、その花、独自の存在感を持っている。ちょっと切なく、どことなく寂しく、しかし凛としてそこにある。

「有言実行」という言葉は、今では当たり前に使われる。元々の「不言実行」よりも耳にすることが多いくらいだ。現代的であると言えばそうであるし、例えば、会社の営業会議などで、目標を発表してそれを約束するなんていう場面では、都合のいい言葉かもしれない。でも、ちょっと品がないようにも思ったりする。もっとさらっと行きたいものだ、と僕は思う。

その人は、水曜日の午後、花を替えに来る。
海沿いのその駅が無人化されたのは、二年ほど前のことである。
切符売り場として使われていたガラス窓は、その時から生け花を飾る場所として使われるようになった。
家の庭で育てた様々な花をうまくあしらい、派手さはないけれど、どこか艶やかでしっかりと立つ花を生ける。
器用に動くその手は花と一体になり、迷うことなく動いている。
一通り作業が終わると、作者名を記した札を改札口に向けて整え、ガラス窓をゆっくりと閉じて帰って行く。
彼女には、ある秘めた目的があった。
そうでもなければ、二年という月日の間、毎週怠ることなく続けられるはずがない。
彼女には、ただひとり、「心を奪われた」と思える人がいる。
その人は、二十年ほど前、この駅から列車に乗り、町を去った。
彼女は、その人がいつか帰ってきたときのために花を飾り続けることにしたのだ。
今も町に自分がいることだけを知らせるために。
札の名前は、旧姓のまま。
それは不実ではない、と思いながら。

生け花というのは、不思議なものだ。根を絶たれ、花としてのみ生きている。生け花にした方が、花は長持ちすると聞いたことがある。剣山や花留めに差され、花器という想像の大地に生きている。生け手が去ってしまえば、花は、ただ花として立っている。

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2012.01.17

淡い光

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窓辺が好きになれない植物は茎だけを残して裸になる

扉を開けると白い地面に眩暈を覚える

すべてのものが分解して元の場所へと戻っていく

残るのは感情という幻だけ

それが僕の正体だ


「家族に乾杯」には、ときどき一点の曇りもない幸福が映る。
その理由をふと考えてみる。
それはきっと、すべてが自分の範囲にある人だ。
いや、テレビではそう見えるだけでその人も影を持っているのだろうか。
それぞれの作る影に互いに光を当てあい淡い光で満たすこと、それが家族のありようかもしれない。

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2012.01.16

cheaper

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女の子の雑貨には、チープで可愛らしいものがたくさんある。きっとそれは、身の回りの小さな世界を素敵にしたいという思いが買い手と作り手の共通認識として出来上がっているからかな。誤解を恐れずに言えば、男性は遠視的な目で、女性は近視的な目で、この世界を見ている。灯台は、その足下を照らすことはできないし、電灯の光は、遠くまでとどかない。太陽、ただひとつすべてを照らすものは、陽の光であるけれど、それさえ万能の光とは言えない。

中内さんではないが、安さには正義がある。多くの人は、定められた賃金の下に生活しているわけで、その範囲の中で、より豊かな暮らしをするためには、安いものを求めるのは当たり前のことである。もちろん、所得を拡大することで、その範囲を大きくするという考え方はあるけれど、それは、容易なことではなく、また、現在の我が国においては、経済全体の拡大によってそれが実現することは極めて想像しにくいことである。消費の減少の下、価格の下落は、すなわち企業の利益の減少に繋がり、賃金の低下という結果を見ることは明かである。そこで、市場を広げるためにグローバルな展開をするということになるのだけれど、ここでまた、コストの問題が出てくる。要するに、すべてを維持することは不可能であり、淘汰されることによって一部が生き残るということになるわけで、日本の企業も、そういう局面であるということだ。これからは、ヨーロッパの手工業的な物作りを基盤にする企業か、アメリカの研究開発に注力する企業のようなモデルでしか、日本の製造業において、将来を考えることは難しいのではないか。・・・なんて書くことは簡単だ。

とは言うものの、いいものは長持ちする。今の日本の製造業は、以前にはあったそういうものを駆逐した平原に築かれてきたのではないか。しかし、近頃は、また、しっかりとしたもの、長く使い続けられるものが見直されつつあるようにも思う。そういうものが持つ独特の味わいが消費に疲れた人々の心に響いている。ただし、それが、国の経済を支えるほどの規模であるかどうかは別として。

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2012.01.15

for F ar

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久しぶりにジッポーを使いたくなって、フリントとウィックを買ってきた。綿を抜くとそのシンプルな仕組みに感心する。シンプルなものほど長持ちする。これは、何にも言えることかもしれない。僕たち、人間も含めて。

フリースやダウンの一般化で、セーターの出番は本当に少なくなった。確かに様々な気候への対応を考えると、セーターでは、ちょっと不安になったりする。

トースターとポットを買い換える。両方とも限界、燃えそうだった。選定の理由は、安いやつ。

小泉今日子が、おばさんであるかどうかというのはまあどうでもいい話である。それは、社会通念上、年齢からすればそうかもしれないし、テレビで見る限りにおいてはそうは見えない。まあ、おばさんであってもいいわけだし、本人もきっと言葉としての「おばさん」には何の抵抗もないだろう。大切なことは、この世界にどんなふうに立っているかということかな。それによって、美しさには大きな差が生じる。このドラマ、民放のものでは最近に珍しく面白そう、と思うのは、おじさんだからかな。
「最後から二番目の恋」

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2012.01.14

for far

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グレーの作業着の袖口から、いつもとは違う青い時計が半分見えた。ダッシュボードもグレーで、道路も空もグレーだった。この世界は、美しいと思った。果たしてこれは、グレーのせいか、青のせいか。僕たちが、色を認識する力を持っているのは、そのことが生きていくのに必要だからだろう。光・・・、その圧倒的な存在感。まさに、神は、「光」を言い換えたに過ぎない。

スカイツリーの完成によって変わる東京タワーの立場は、まだ確定していない。ふたつの名称を比べると、「東京タワー」は当たり前で、「スカイツリー」は、考えた末に無難な名前になったという感じがする。時間は、スカイツリーを東京タワーまで高めるだろうか。今のところ、東京タワーは、スカイツリーより遙かに高くそびえている気がする。

歴史ドラマを見ていると、その主人公の武将や変革者たちが、まるで自分と繋がりがある人のように思えてくる。でももし、そこに自分がいるとしたら、処刑場の柵の外で騒ぐ民衆か、戦禍に逃げ惑う人々であるということに気がつく。

西洋には、王をも跪かせる神という絶対的な存在がある。アジアではそれが曖昧だ。天皇制は、国体を安定させ、権力者を絶対的な立場に立たせないための一定の役割を担っている、天皇と権力が結びつかない限りにおいて。

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